読書、映画、ドライブ、そして事業経理

元コンサルリーマンの雑記ブログ

爆発の本を読んだ。

最近、化学系の本を読んでいる。化学史入門のような内容が多い。

私には「科学と言えば物理だろ」という偏見がありそっち方面の興味が強い。だから免疫のない化学本を読むことで、今更ながらハーバー・ボッシュ法のすごさに驚いたりしているありさまだ。楽しい。

これとか高校で習ったはずだが、やはり食糧供給体制を変えたとかやドイツが戦争(WWⅠ)に踏み込むきっかけを与えたとかの文脈で説明されると、とても印象に残る。高校の学習を無味乾燥にしないためには副読本の効用が必須だ。

 

 

また中世ヨーロッパにも触れ始めたため、あちこちで「錬金術」という単語に出くわす。錬金術は約2000年も続いた。それにしても最終目標を達成できずにここまで持続した営みがあるのだろうか。黄金を生み出すというインセンティブが人々をここまで長く惹きつけ、副産物として化学の土壌(各種発見、器具の開発)を整えてきた。錬金術師たちは間違った方向へ走っていたのかもしれないが、彼らがあれこれ試行錯誤しなければ化学の発展は周回遅れだった。人類を長期にわたり方向性をもって駆動させてくれた錬金術はありがたいものだ。

 

 

さて爆発である。

SUPERサイエンス 爆発の仕組みを化学する | 齋藤勝裕 |本 | 通販 | Amazon

この本を読んだ。2時間くらいでサクサク読める。めっちゃ面白かった。

爆発をテーマに爆薬から身の回りの爆発、さらにはビッグバン~恒星の誕生を語るのだが、著者の手際が良くこの辺の知識を楽しくおさらいできる。説明が重複することが多いのが気になるが、基本的に説明は超うまい部類だと思う。というか爆発ってこんな普遍的だったのか・・・!

 

 

本書では心をくすぐる用語がちらほら出てきて胸が躍る。

例えば『燃焼による爆発は「爆燃」と「爆轟」に分けられる』という記述。これだけで妙に心をくすぐるのはなぜだろうか・・・。

ちなみに「爆轟」は炎の伝播速度が音速を超えるため衝撃波が発生するド派手なやつで、「爆燃」はそうでもないやつなのだが、この説明だけで面白い。この本ではこういういい感じにくすぐる知識がたくさん出てくる。後で少し紹介したい。

 

 

しかし、散発的な雑学よりも全然貴重だった点は、本書には爆発のイメージがクリアになる説明があったことだ。具体的には次の説明を得たことだった。

 

①「爆薬による爆発は化学的に見れば『燃焼』である」

ただし急激な燃焼である。モノが燃えるには酸素が必要だが、爆発くらい急な反応を実現するには迅速に酸素を供給する必要があり、空気中の酸素では間に合わず酸素供給物質もセットじゃなければならない。

 

爆発の威力は「爆発前と爆発後の系の内部エネルギーの差」として表れる

ということで爆薬には内部エネルギーの高いもの(不安定)が、爆発後の生成物としては内部エネルギーの低いもの(安定:二酸化炭素や窒素など)が求められる。

 

映画やゲームでよく見聞きする「ニトロ」だが、これもなんで爆発物によく使われるのか本書の説明で明快になった。爆発には燃料のほかに迅速な酸素の供給が必要だ。有機化合物はベンゼン環部分が燃料としてよく燃える。さらにニトロ基(-NO2)には酸素原子が2個もくっついて酸素供給力がある(200年も現役を張っている爆薬「トリニトロトルエン」さんなんかは名前の通りニトロ基が3つもついている!)。

燃料と酸素供給が一体化しているのだ!

また、爆発後に生成されるのは水、二酸化炭素と窒素であり内部エネルギー落差も大きい。そのため放出するエネルギーがでかい。

そして安定しているから扱いやすい(これは放出エネルギーを下げる要因だが、あぶなくて使えないよりマシ)。

 

 

本書は浅くて広い。燃焼型の爆発だけではなく破裂や核爆弾、ちょっとした火薬の歴史や爆発事故も記載してある(他にもてんこ盛り)。

たとえば火薬の歴史で言えば発明自体は中国だ。ヨーロッパに伝わったあとは爆弾や大砲など応用編が発達した。大砲なんかは爆発に耐える砲身を製造する必要があり製鉄技術が大いに発達したらしい。絶妙な炭素含有量コントロールが求められたことだろう。ちなみに大砲は鐘職人に発注されていた。教会の鐘は大きいだけでなく(全域に聴こえる必要あり)、いい音を出すには錫などの配合に技が求められたためその辺に適性があったのだろう。

 

 

ちなみに爆薬と言えばノーベル師匠の秘蔵っ子ダイナマイトだが、現在の土木業界では「アンホ爆薬」なるものに主役を奪われているらしい(ダイナマイトの3倍使われている)。爆発力が大きくて安いのだとか。その昔ソ連が土木に核爆弾を使う実験をしていたというトンデモ話も出てくる(240回くらい実験したらしいゾ(*_*))。

 

 

他にもこんなトピックの説明もある。「あぁ気になる、知りたい!」と感じたら是非読んでいただきたい。

・粉塵爆発:

 可燃物の粉が舞うと超危険。小麦、砂糖、金属粉などなど。怖すぎ。

・金属爆発: 

 金属の中には水素を発生して二次爆発を起こすものがある。マグネシウムとか水を掛けると水素出すので、消防隊も砂掛けるか見守るしかできない。燃え尽きるまで待つしかなく鎮火に1週間かかることも。

・活性化エネルギー:

その辺の炭が勝手に燃えない理由。ただしこの峠を越えるエネルギーを与えると自転車操業のように燃焼が維持される。

・有名な爆発事故概説:

パルテノン神殿(そうだったのか!)、ヒンデンブルグ号事件、ツングースカ爆発(水爆クラス!)

・身の回りの爆発:

(あんま興味わかず)けっこうな誌面を割く。つまんなくはない。

・ロケット燃料:
ハイパーゴリック推進剤とか。岡田斗司夫ゼミ観てる人ならテンション上がる(ちらっと出るだけだが)。

・雷:

稲妻(稲の奥さん)と呼ぶのは雷が空気中の窒素(肥料)をイオン化して土壌にしみ込ませるから。ということはゼウスはお稲荷様の妻になるのか。ううむ。

 

 

ちなみに著者(齋藤勝裕氏)紹介も面白い。『趣味のアルコール水溶液鑑賞は1日も欠かさず、ベランダ園芸で屋上をジャングルにしているほか・・・』。面白文才のある人なのだろう。

 

同著者の以下の本もAmazonした。

https://amzn.to/3pplZkO

■SUPERサイエンス 脳を惑わす薬物とくすり

⇒ Netflixで海外ドラマを観ることが多いが、「ブレキング・バッド」にしろ「ナルコス」にしろ「DOPE」にしろ薬物の入門的知識があったほうが絶対楽しめる。というか知らないとドラッグの種類の多さに翻弄されてまう。ってか現代アメリカモノはドラッグ出すぎ・・。

 

 

以上、良書でした。

 

批評の効能

「なぜ批評をするのか」を考えた。個人的な話で一般論ではない。

答えは① 『正気を保つため』、② 『感じたことを共有するため』の2つかなと思う。

 

② 『感じたことを共有するため』

②は「発表」という行為に含まれる。「発表」は意見を周囲に伝えて社会にかかわる方法のことだ。実は「批評」自体には他社に伝えるという要素はない。自分しか見ないノートに批評文を書き溜めて死んでもいいのだ。

しかし、個人的には批評内容について誰かからフィードバックが欲しい場合が多い。映画や本を鑑賞してどう思った、何がどうだった、という感想が自分だけではなく他人にとっても有効かみたいのだ(独りよがりじゃないか知りたいということ)。

また、他人からの生の反応があると興味関心がより活性化されて楽しい。結局コミュニケーションしたいという欲があって発表している。

ここでは特に映画なら映画で1本が約2時間のコンテンツについて、焦点を絞った分深いコミュニケーションができることを期待している。

 

 

① 『正気を保つため』

個人的により重要なのは①だ。なぜ批評で正気が保てるのか。それは自分が感じたモヤモヤを説明することになるからだ。

「この映画、まぁ面白かったな。今年のベストテンに入るとは思わないけど、大人気なのもわからなくないな」といった微妙な感想を持ったときこそ、批評から効能を得るチャンスだと思う。潜在的なみんなとズレてる感を解剖するのだ。

 

このズレを放置していると徐々に正気が侵食される。自分の感じ方より社会の感じ方に引っ張り込まれてしまう。

 

周りの感じ方に迎合し、妙に物分かりのいいやつを気取ることは、表面上はやってもいいが本音レベルでやっていいことではない。あいまいなまあ社会を鑑賞するとその人なりの鋭さというものがどんどん鈍らになってしまう。

ホントはどう感じてたのかというチェックに批評が役立つのだ。

 

今後考えを深めたい内容。

ペンギン・ハイウェイ(監督:石田祐康、脚本:上田誠、キャラデザ:新井陽次郎、制作:スタジオコロリド、原作:森見登美彦、2018)

※ネタバレあります。ご注意ください。

 

アニメ映画の制作サイドは監督さえ書けばよいという気がしないので作品タイトル右にいろいろ書いた。
アニメの制作体制は気になっているのだが体系的によくわかっていない。富野由悠季さん(ガンダム原作者)の本が好きだから断片的には入ってくる。今度きちんと調べたい。
キャラデザの新井陽次郎さんはジブリ出身とのこと。「感情が高まった時にふわっと髪が逆立つ。ところなんてDNAが刻まれてますね~」という笠井アナ(元フジテレビ)の解説で「ジブリってそうだよな」と思った。

今回は印象に残った点をつらつら書いてまいります。


・この映画、なかなかに面白かった。

終盤のペンギン大行進(ペンギンに載って「海」へ突き進むところ)なんてアニメの真骨頂ではないだろうか。アニメでしか出せない迫力・爽快感だと思う。クライマックスへのいい盛り上がりだった。
監督インタビューでもこのシーンは「作画泣かせ」と言っていたが、リソースをかけるべきところにしっかり投入している証拠だ。優れた指揮官だ。
このシーンでは「あぁ、俺も生きたいなぁ」としみじみ感じてしまった笑。俺はこの映画のどの要素にそう反応したのだろうか。お姉さんとステキな時間を過ごすこと?日々を研究を重ねて遥かな高みを目指すこと?友達との夏休み?どれだろう。
この映画には少なくともこれら3つの「いいなぁ」があった。これらは普遍的な内容(2点目はニッチだが)で、そこにSF要素が加わる。

 


サバサバした世界

登場人物たちには名前はない。苗字だけだ。あだ名もない。だから苗字で呼び合う。小学生にしちゃあずいぶん変だが、観ていて不自然には感じない。舞台も小ぶりな地方都市っぽい一方で妙に都会的なのだが、
それらが描かれる日常の「清潔で上質な雰囲気」によーくマッチしている。この街では市街から転入してきた人を変な目で見るような土着要素は一切なさそうだ。それはそれで『東京人が描いた地方都市』的だと感じたのだが。
※原作の森見さんは京都の方だったと思うが、映画制作サイドが東京要素を経由させたのだろうか?


主人公もヒロインもサバサバしていて洗練された世界観でよく映える。むしろこういう人物を描く原作者だからこそ、サバついてる世界をうまく描けるのだろう。サバついてるくせにあたたかみがある。子どもたちが健全に生き生きしている。
※原作を読んでいないのでそちらでは違っていたらごめんなさい。


「えらい大人になる」というセリフ

冒頭で気になったのは「えらい」大人になる、というセリフ。けったいなセリフだな、この子のこういうアタマでっかちな世界観が120分で変わるのだろうなと思いながら観始めた。
しかし変わらなかった。変わったのはこっちの感じ方の方で、最後にはこのけったいだったセリフが実に健全に感じられた。応援したくなる感じ。これを自然に少年のひたむきさで描いて見せた点がこの映画の見事な点だと思う。

 


お姉さんの正体がどうあれ悲しい

そんないい雰囲気の映画だが、一番さみしくなるのはやはりお姉さん(青山君あこがれの女性)が人間ではないことを察していくいくつかのシーンだろう。
実際はペンギンが異常に丈夫なところから観る人は異質さ・不安さを感じ取っているはずだ。しかしペンギンとお姉さんが結び付くところでは、まだ不安さは無意識的であり、表面上は安心して観ていられる。むしろお姉さんと親密になっていくフェーズだ。
だが2,3日メシを食っていないというシーン(お姉さんと海辺の家に行く途中)で「・・・アレ?」と不安が意識の前面に出てくる。しかし2,3日なら現実的に考えてもギリギリあり得そうなので『人間ではない』という悲しい直感を受け入れることを拒むことができる。
2,3日というのは非常にいい塩梅だったと思う。少なくとも私は「うん。・・・・そういう日もあるよね」くらいで受け流そうとした。

 

だが1週間メシを食わないことで人間ではないことを確信する。ここで「別れ」が一気に認識の前面に出てくる。お姉さんの正体がどうこうというよりも必然的な別れが内蔵されているのか、いないのかが重要なのだ。
※青山君(本作の主人公。小学生)の合理的な生活スタイルに、どうしようもなく非合理的な穴をあけているお姉さんへの恋慕が、観る者の中でもよく効いている。まぁこれが描けている(しっかり別れを悲しませる)だけでもいい作品だと思う。

 

そうなると青山君がお姉さんのマンションにコンビニ袋をぶら下げたあのシーンが切なくよみがえってくる。あのころはまだ永遠の別れが来るなんて考えていなかった、一日でも早く治ってほしいという気持ちだったのである。


食事をやめたお姉さんの一方、青山君は不調が治ると母親の手料理をぐいぐい食う。ほほえましいシーンだが、食事しなければならない彼はどうしても人間であり、お姉さんとは別れる運命であることが強調されているように思う。だから微笑ましい悲しいシーンになっている。


そして海辺カフェで「お姉さんは人間じゃない」と断言するに至る。
ちなみに私は海辺カフェでの次の会話が好き。超ウルトラ大事な話してるのにコーヒーという何気ない日常会話にシームレスに変化w サバサバした二人の感性を見事に示していると感じた。


「私はなぜ生まれてきたと思う?」→「わかりません、でもいつかは・・・」→「じゃあわかったら教えて!・・・・コーヒー、苦い?」(セリフは完全再現ではないです)

 


お姉さんが消えるシーンについて

この映画で一番やってくれたところだろう。こればかりは映像表現の妙味なので観るしかないが、まったくしみったれていない。見事に消える「刹那」を描いてみせたと思う。某シネマンディアス風に言えば「5億点!」。
直前まで朗らかに手を振ってくれていた当たりも、サバサバ人物たちの別れとして実にふさわしかったと思う。

 


"都合のよさ"について

なおこの映画もほかの映画同様にツッコミどころ("都合のいいところ")がある。しかし"都合のいいところ"は悪ではない。その映画の「狙い」を効果的に引き出すためのものだからだ。
だから観ていて"都合のいいところ"を感じたら、「さて、どんな狙いのための仕込みなのだろうか?」とメリハリを付けて観ることにしている。
しかし都合の良さが悪になることもある。万が一大事なところを都合よく描いてしまっていたら、残念ながらその映画は駄作になってしまうのだ。

 

やはりストーリー上の大事なつながりは都合よくではなく、必然性があるように描いてほしい。120分で映画をまとめるにはこの辺の絶妙な采配が必要なのだろうし、映像表現独特の暗示(コトバで言わない)の力も駆使することになる。
※暗示は観客が1回(ないしは2~3回)でほんの少しの考察で気づくレベルで混ぜ込む必要がある。これをやるのはめっちゃ難しそう。監督とかなんかもその作品を観るから、初見の観客の気持ちなんて分からなくなりそうだし。


さてこの映画のツッコミどころだが、私にとってはさほど気になるものではなかった。
・海辺のカフェで青山君がお姉さんと一緒に父親を待つ習慣。なんでやねん。
・お姉さんが神的存在なら、お姉さんの実家の家族の存在どうなってるんだろう。劇中で触れられるが一言だけであり、考察魔対策だったのっか?※原作ではもっと踏み込んでいるのかもしれない。
・「海」に入ってしまった浜本パパたちはなぜ安全ゾーンに避難できたの?彼らはペンギン使えないのに。
・他にもたくさんある気がするが、気にならなかったから印象に残っていない。

 

 

中盤あたりでお姉さんがペンギンを出すのに必要なのは「光」だ、ということを青山君は気づく。このシーンによって以降の「明るさ」と「暗闇」の意味が格段に変わる。お姉さんは暗闇ではペンギンではなく不気味なコウモリを生み出してしまう。
と思って観たのだが、この効果は直後くらいしか効果的に使われなかった。・・そもそもが俺の勘違いかも。

 


まぁそりゃうらやましいですよねw

おっぱいについては皆さんいろいろ言いたいことがあるだろうが、私としては次の点に尽きる。「相手が公認の上で、きれいなお姉さんのおっぱいを論じる」のはうらやましいということだ。
様々な角度からおっぱいを見ることができ、それを相手が一応承っている(しかもいい女)、という状態は至高なのだ。まぁ二次元の小学生くらいの無垢さがないと無理だけどね。。ザッツ・ファンタジーだよね。


青山君がお姉さんを自分たちの秘密にしておきたいわけだよ(研究対象扱いされるのを懸念しているだけだが、独占欲が1㎜もないわけはあるまい)。お姉さんはアイドルじゃなくて「ぼくの」お姉さんであってほしいものね。。わかるぞ、少年。

 


母親<<<<<父親

この映画の親のかかわり方について。母親よりも役割を果たす「父親」たちも印象的だった。青山君のお父さんと浜本さんのお父さんだ。どちらも理系研究者気質(浜本パパは本物の研究者)であり、ストーリーに影響する。
一方の母親は青山君ママですら前半ではほぼ出ない。後半まで存在は示されているのに存在感は全くなく、一種の不気味さがあったのだが、後半は普通に優しく出てきたから何かの仕込みでもなかったのだろう。ちょっと肩透かしだった。

 


アンフォーマルへの入り口:保健室

「海」が巨大化して研究者数人を飲み込んだところで緊急ニュースが流れ、学校が避難所と化す。父親が飲み込まれたことを知る浜本(クラスメイト。青山君と同類寄りで秀才肌)は不安でたまらなくなるが、安全第一のため先生たちは学校から出ることを禁じる。


そこで青山君が機転を利かせ「浜本さんの体調が悪いので保健室に連れて行きます!」と小学生らしく元気に手を挙げて発言する(この小学生らしさ実に見事)。
保健室である。古くは授業をさぼる生徒の逃げ場であり、今では不登校児が何とか学校の敷地には入ったが教室に入れない場合の聖域でもある。このように作品上での保健室には逃げ場・聖域という裏の顔が存在する。


このシーンでも「抜け道」としての保健室の面目躍如感があり、なぜか保健室に対して「お前ってやつは・・・」と信頼と称賛を禁じえなかった。保健室はやっぱり面白いですよね。私はほとんど使ったことなかったですけど。保健委員でしたけど。

 


お姉さん登場までの見事な流れ

それにしても前半でお姉さんが登場するまでの一連の流れは見事だった。
学校で鈴木(クラスメイト。ジャイアン的)が内田(クラスメイト。内気な親友)を張り倒す → 歯科医で青山が鈴木と会う→スタフラニスキー症候群(だっけ?)という知的坊やジョークを見せる(内田の仕返し) → 
お姉さんが怒りながら登場、ときれいに必然性(都合よく端折らない)でつながっている。

キレイにつながっているからこそ余計なことを考えずにお姉さんに集中できる。少しでも違和感が入ると観るものは考えが一瞬だけ横道にそれるからだ。
この辺り都合よくササっと描いてもよさそうなものだが、制作者たちの意地なのか実にうまく描いてあった。お姉さん中心の話だからやっぱり登場シーンを大事にしたのかな?


大事にすると言ってもお姉さん自信や登場とその直前だけをリッチに描くのではなく、自然に自然につなげるということに力を入れたのは(そうだとしたら)、とても効果的だったと思う。

 


冒頭のペンギン大逃走劇

冒頭でペンギン一匹が街を逃げ回り森の奥へどんどん移動していくシーンについて。このシーンも見事だったと思う。はじめはただの野生のペンギンくらいに観ていたのだが、野生動物としては動きがおかしいはずだ。


野生動物は基本的に動き続けたりしないだろう。その場の危険から逃げることができたら今度はその逃げ先が安全かを確認するはずだからだ。それにむやみに走り回るのは体力を消耗するためサバイバルには向かないと思う。


だから何かに追われてもいないのに移動し続けるペンギンというだけで非常に奇妙な感じを得る。一心不乱なペンギンの動きからは野生動物よりも人格があるかのように感じられる。


思えばこの違和感からお姉さんとの別れは予感されていたのだろう。雑に言ってしまえば神の意思で動いてるペンギンがキーになるのだから非人間的要素があることが暗示されるのだ。


コミカル(住民がペンギン見て腰抜かすなど)だがすこーし異質で、後のさみしさを予感させるシーンだった。

 


ポカンとした顔の演出効果

劇中中盤で青山君と浜本さんが言い合いになり、間に挟まれた内田君がポカン顔をかますというシーンがある。こういうシーンって展開が前に進んでいることを効果的に示すんだなと感じることができた。
ポカン顔が観るものに当てる第一印象は微笑ましさであったりかわいらしさだと思う。しかしポカンとするからには本人は『置いてきぼり』を食らっていることになる。
置いてきぼりを食らうためには周囲が次へと進んでいなければならない。つまりポカンとした顔を大写しすることで逆説的に展開が次へと進んでいることを示すのだ。

 


宇多田ヒカル

宇多田ヒカルのエンディングテーマは好きな曲だけど、全然オシてこないから最後に流れても「あぁ終わった」感が出ない。まぁ悪くないんだけどね。「あ、この曲使われてたんだ」というあまり効果的ではない使われ方だった。
劇中で流れるマンドリン曲は葛城梢さんという方の演奏らしい。たまに聴くとやっぱりいいですよね笑。おきれいな方です。どっちも曲としては好きでした。

 


お姉さんが美人ではなかったら

しかし、この映画はお姉さんが美人じゃなかったら成り立たないだろうな。恋モノだしお姉さんへの憧れが原動力だからそれで問題ないのだが。美人ね、、、それだけでこうも偉大とは。いやはや参る。
美人についてはあまり考えることができないが、『お姉さんが美人であること』の「意味」を考えるにはどうすればいいのだろうか。イイ感じの問いがサクッと浮かんでこない。あんま意味ないのかな?多くの人が論じてそうだから調べて観るか。今度。。

 

そもそもお姉さんが美人以外でこういう二人の別れの話を描けるのだろうか?

 


好きなセリフ:「だけど僕は踊ると、ロボットみたいになる」。

グレイテスト・ショーマン(監督:マイケル・グレイシー、2017)

華やかな映像盛りだくさんだがテーマはあいまい・・・? キレイだがストンと腑に落ちて来ない作品だった。

実在する興行師P.T.バーナム(ヒュー・ジャックマン)の半生をモチーフにした映画。105分。彼が成功を勝ち取ってからの苦悩がメインなので前半は成功を掴むまでサクサク進む。

成功を掴んだあたり(リンド(欧州の大人気女性歌手)の初米国公演)から暗雲が立ち込めるのだが、実はこれと言った苦悩の核がない(欲を出し過ぎたというのが一応あるが)印象だった。だから後半の姿がつかみにくい映画だった。
後半モヤモヤの原因はミュージカルタッチにもあるのだろう。基本的にミュージカルを歌いだすと悩みが吹っ飛んでしまう。だから苦しいシーンでも苦悩に満ちた印象が散ってしまうのかもしれない。

ひょっとしたらバーナムが欲にまみれてリンドの全米ツアーに行くところで、ものすごい邪悪な歌でも歌ってくれれば「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とか「身近にある幸せ」とかの苦悩テーマが際立ったのかもしれない。まぁ雰囲気台無しだからやらないとは思うが、ちょっと健全さを保ちすぎて面白みを削ってしまったのではないだろうか。

前半のグイグイ進む力を使って、いろんな場面のミュージカルシーンを描けるのはよかった。これだけたくさんミュージカルシーンがあるのにそれぞれ重複感がないのはすごいことだと思う。

そしてヒュー・ジャックマンがカッコよすぎで、それだけで満足できるレベルだった。彼は監督と次回作への準備をしているとのこと。そりゃ「ミュータントだー!」とか言って爪を振り回す役より、きれいな衣装を着て歌声を披露する役の方がいいよねぇと思った笑。

 

 

成功まで一気に駆け上がる前半

映画を観ていると「あれ、都合よくポンポン進むぞ」と感じる箇所が必ずある。それが前半ならいい映画で、後半ならやばい映画だと思う。この映画は前半が都合よくポンポン進んでいく。

この映画で異常なテンポを感じるのは、例えばバーナムが小人のチャールズをフリーク・サーカスの出し物として雇おうとするところだろう。チャールズははじめ、「笑いものになるだけだから」と誘いを断る。
そこでバーナムは「将軍の衣装を着ればみんな頭を下げる」とかなんとかいうのだが、たったこの程度の売り文句で小人のチャールズ(22歳)は満面の笑みで承諾してしまうのであった。いいのかそれでw
さすがにこの人物描写の軽薄さは異常事態である(22年間迫害された人間がこんな軽いはずない)。

これほど都合の良い展開を観ると、脚本サイドからの「別にここ大事じゃないから、キャラだけ覚えといて」というサインだと感じることにしている。描きたいのはここではなくその先ということだ。

前半は以下の順に話が進むが、だいたいずっと都合が良い。
「身分差のある妻と結婚」→「バーナム博物館失敗」→「フリーク・サーカス大成功」→「フィリップとの出会い」→「イギリス女王に謁見」→「リンドのショーが大成功」(記憶ベース)
他にもエリザベス女王への失言を女王が爆笑して丸く収まるところなんかもわかりやすく雑である。

この映画が描きたいところは成功後のバーナムの苦悩だからさっさと大成功させてしまった。なおパキパキ進むがそんな中でバーナムの家族の書き方は非常に上手(妻の存在、娘の存在ともに)だった。ジャマでもないし居る意味がないわけでもない。彼女らは物語に自然な重みを与えている。

 

※「都合のいいモード」では映画はキャラクターを描くことができないように思う。最悪の映画は「都合のいいモード」がずっと続く映画なんじゃないだろうか(”ドラえもん Stand By Me”とか・・・。のび太の描写がゼロだった気がする)。

もっとも上手な映画だからフィリップ(上流社会を客にした劇作家)との出会いなど大事なところは手綱を緩めてじっくり描かれている。まぁその後のフィリップの居る意味ないっぷりは残念だったが。。。

パンチが効いてるのは娘が「バレエを始めるのが遅すぎたわ」「本物はサーカスなんかと違うの」と言ってのけているシーン。後半の苦悩への布石としても効いている。しかし、そんな会話のあとバーでフィリップを口説くバーナムのタフさは好きだった。

 

後半はこうなるもんだと思った・・・

この映画ではフリークが大集合するので必然的に「虐げられた者たち」的なキャラが多い。またバーナムも貧乏出身なのでその側面を内蔵したキャラになっている。
ポンポン進んでいく前半を観ながら何のためのハイテンポなのかと窺っていたが、娘の「本物はサーカスなんかと違うの」発言で気づくことができた。バーナムが上流意識を持ちながら成功するとフリークたちは置いてけぼりになる。

バーナムは見た目が普通なので成功さえしてしまえば上に行けるが、見た目でアウトなフリークたちはそうはいかない。つまり二者は分断してしまう。この葛藤を描ければ大変な映画になりそうだと思って観ていると、
まんまとそこに正統派のシンボルみたいなリンドが登場し、彼女の力でバーナムは庶民客だけではなく上流客も手に入れてしまう。分断へと加速する。この成功スピードはそのまま仲間との分断スピードとして跳ね返ってくるのではないかとハラハラしていた。

リンドのステージに驚きと自信の表情を浮かべるバーナムはとても印象的だ。だがその裏でフリークたちとの団結が崩れていくことに本人は気づいていない。
※演出上はフィリップとアン(空中ブランコする女性フリーク)の手が離れ、アンがどっか行っちゃうことで提示されている。
バーナムの過剰な表情は、単に次なる成功への野心だけではなく、過ぎたる欲望が手元の成功をぶっ壊している様も示しているようで、実に見応えがあった。リンドの大迫力の歌唱で高まった雰囲気の中でこの演出は効果が抜群だった。こういううまい演出を観るとテンション上がるw

なおリンドのステージシーン自体はちょっといただけなかった。ダサかった。wikiによれば口パク(歌唱は別人)らしいが、だからってあのダッサイ歌い方はないべ。もうちょいなんかあるべ。それに19世紀にあんなポップな歌あるの?(まぁこれは仕方ないが)

そしてリンドのステージの打上げで分断が顕在化する時が訪れる。打上げには上流客が集まっているのだが、そこに感動したフリークたちが押し寄せてくる。だが入れてもらえない。バーナムが拒んだからだ。それで一気に「どうせ俺たちははみ出し者だから」とグレるフリークたち。

「来た!分断した!こっから丸く収めるか、ぶっちぎって絶縁するか、どっちも面白いぞ」と興奮して観ていたのだが・・・、この後特に分断が描かれることはなく、肩透かしを食らったw。
まぁ俺の山が外れただけなのだが、かといって代わりになるようなテーマも発生してこない。ぼやけた後半だった。「愛が足りない」というセリフがキーワード的に散りばめられているので、これを使った関係性の修復とかをイイ感じに描けそうなのだが。。。

 

苦悩する後半:正統と非正統、大成功と身近な幸せ。しかし何も解決していなくない?

後半の流れはこんな感じ。一言でいうと何の問題も解決していない。なお問題とは次の2点を指す①バーナムの分不相応に事業拡大したい欲、②事業拡大するときに家族やフリークたちが頭からすっぽ抜けること(この点は明示されていないので観る人による部分が大きいかも。明示されていないからぼやけてもいるのだが)。

「バーナムがリンドと全米ツアーへ(家族との関係が希薄に)」 → 「サーカスがマンネリ化して売上減(フリークたちの疎外感が募る)」 → 「フィリップとアンがもつれる」 → 「バーナムとリンドが決裂」 → 「サーカスが火事で焼失し、家族も実家に帰る」 → 「フリークたちが『あなたに生きる希望を教えてもらった』と言って励ます(は?!)」 → 「妻を取り戻しサーカスを再開する」

バーナムはリンドを失い、家族を失い、火事でサーカスも失う。ここで自分の人生を振り返って何か(特に問題点)を改めるかと思いきや別にそんなことはしない。
具体的にどう立ち直ったのか劇の流れを思い出してみると、妻に出て行かれて意気消沈しているところに、周りからわらわらと人の良いフリークたちが集まってきて「あなたに生きる希望を教えてもらった」と励ましの歌と踊りを披露してくれるのである。

この流れを超簡単に言うと、バーナムはこれまでに積んだ善行の貯金(といってもフリークたちを雇っていただけのこと)の力で立ち直るのである。自分が抱えていた問題を解決して問題解決能力が向上するわけではない。

だから別にバーナムの考えが変わるとか世界観が変わるとかそういう成長はないのである。
それはそれでいいのだが、代わりに効いている「フリークを雇っていたという善行」もそんなにいいもんじゃない。人生をやり直すだけの効能があるかは納得できない。なんせ小人のチャールズの雇い方なんて前述のとおりメチャクチャ雑だった。その後で何か関係性を深めるシーンもなかった。

バーナムがフリークたちの傷ついた心を慮るシーンは特になく、自分の成功のためだけに使っていたのである。意地悪くまとめると、あまりにも人間扱いされて来なかったフリークどもは雇って活躍の場を与えただけで「素晴らしい人生をありがとう、バーナムさん!凹まないでよ!」なのである。

あまりにもおめでたい展開でちょっと拍子抜けした。つまりバーナムの悪いところは治っていないのである。分断構造に固執して観たせいで、俺が映画の大事な要素を取り

 

つれづれ・・・

・リンドとは全国ツアーの途中でうまくいかなくなる。スキャンダルなキスで衝撃的な別れ方だったが、その後リンドは一切出てこない。彼女は華やか要素を劇に盛り込むための存在であって、人物自体に意味があるわけではなく用が済んだあとは出す必要がなかったのだろう。

・派手なミュージカルシーンを描くのにCGを多用しているがこれは考え物だった。基本的にCGをバンバン使ってしまうと「何でもできんでしょ、それ使えば」という見方になってしまい冷めるからである。使うならトランスフォーマーとかスパイダーマンみたいにビル壊すのに10秒かけるくらいの大型映像にしないと、どうも安っぽくなる。この映画では少し安っぽいCGだった。また俺だけかもしれないが、CGを多用されるとどうせ音声も調整しまくってんでしょという気持ちになってしまった。

・バーナムが実家に帰った妻をビーチに妻を迎えに行くシーンは冒頭の再現でありベタな見せ場。

・サーカスの再建をみんなで決意するシーン(焼失後のがれきの上)でフィリップとフリークたちが口を合わせて「バーナムに生きる喜びを教わった」という言うが、フィリップってバーナムのサーカスでそんな良い目に遭ってたんだwいつやww

・一風変わった冒頭も印象的。ど頭はショーで始まるのだが、バーナムは会場の聴衆に向けたショーをしていない。むしろ聴衆の座席の下から映画の観客に向けたショーをしている。さらに聴衆もバーナムと一緒にリズムを刻んでショーをつくっている。リアリティを考えるとナンセンスだが、「こういう風に楽しむ映画だよ」というメッセージを送ってくれるので安心して頭空っぽで楽しめた。まぁいろいろ考えちゃったけどw。

こぼしたのかもしれない。

なおフリークたちはバーナムを励ましただけだが彼らには集客力という実力があるため、仲間になってくれただけで即バーナムの稼ぐ力は(ある程度)回復する。その回復した勢いでグレイテストショーをしに行ったのである。

 

※友人から指摘を受けて、ラストのバーナムがあっさりフィリップに興行主を渡すシーンについて考え直そうと思っています。いつか見直そうと思います。

ターミナル(監督:スティーブン・スピルバーグ、2004)

5段階評価で3点・・・!

空港アドベンチャー+半端な友情物語。
国籍問題で米国JFK国際空港に閉じ込められた男、ビクター・ナボロスキーが主人公の129分。彼の母国はクラコウジアという架空の国(明らかに旧共産国で東欧)なのだが、訪米した瞬間にクーデターで崩壊してしまう。

 

彼は当時の東欧人らしく労働者的に器用(日本だと零細工場のおっちゃんみたいなスキルセット)で空港でも自分の住環境をある程度カスタマイズしていく。主人公は1年くらい空港に閉じ込められるが究極の善人タイプであり、そこで出会う人(空港労働者、美人CA、保護局の取締員)を感化していく。一方でビクター自体は特段の変化を遂げない(英語がうまくなる程度)。最初から人として正しい聖人君子なのである。

 

楽しかった前半から一転、後半で友情パワー(主人公とそれを守ろうとする友人たち)を描いて見せるが非常に陳腐。あとヒロインのアメリアが脚本的に都合のいい女でお粗末じゃないかなと感じた。
前半は細かいところまで楽しい一方、後半が詰め込み過ぎで印象に残らないのが残念だった。

 

前半:空港アドベンチャー

前半は序盤を除き空港アドベンチャーになっている。前述の通りビクターはそこそこ器用であり、次々と空港をカスタマイズして自分の生活の向上してしまう。例えば67番ゲートではベンチを解体してテキパキと簡易ベッドを作るし、買い物カートの回収で小銭を稼ぐ方法を見つける。また美女と出会って親しくなるし、入国審査官と機内食運搬係の間を取りもつことでメシを調達することを覚える。


空港のギミックをあれこれと使いこなしてどうにか生活できる状況にまで作り変えてしまうのだが、このあたりの展開はテンポがよくて笑えるため飽きずに前半が進む。本屋で英語と母国語のNYガイドブックを読み比べ急速に英語をマスターするのも面白かった。

 

このように目の前の課題をクリアしていく上で随所で空港特有な仕掛けを使うため空港アドベンチャー(冒険、自領域の拡張)的な楽しさがあった。

ただし序盤はアドベンチャーというよりも悲惨だった。この辺りも丁寧に描かれていて見応えがあった。


英語が全く分からないビクターは空港内垂れ流しのニュース番組を見て入国できない理由が祖国の消失だと気づく。素朴な善人である彼はここで一気に不安になり大騒ぎする。だが誰も助けてくれない。


当たり前だ。都会では訳の分からない言語で騒ぐ中年なんて誰も関わりたくないのである。観客としても無視する脇役たちに共感してしまう。だから観てられない気持ちになる。「いやいやビクター、それじゃダメなんだよ」が観客の気持ちだろう。


そんなシーンが結構続いても素朴なビクターは半べそで騒ぎっぱなし。彼には都市生活者の洗練さのカケラもない。都会で問題を解決するのに必要なのは大騒ぎすることではなく、礼儀正しく手続きを淡々とこなすことなのだが、そんなことはお構いなしだ。
ビクターにはそんな要素がないことが脚色たっぷりに描かれていて、「人情」vs「制度」といったこの映画のテーマ(の1つ)が観客の脳裏にしっかり刻み込まれるいいイントロだと思う。


ちょっと「やり過ぎ」くらいで描いており、心優しい観客ならばビクターへの感情移入をしてしまうだろう(=スピルバーグの術中へハマる)。


なお、せめてニュースの音声を聴きたいと考えたビクター(空港内の垂れ流しTVは音声なし)がやっとたどり着いたのが「会員制ラウンジ」での放送なのだが、当然会員じゃないからむげに追い返される。ここなんてかなり「やり過ぎ」だが、ツカミで観客の心を掴むダメ押しとしてはよく効いていると思う。

 

なおもっと細かい話をすると「制度」は冒頭5分だけでもしっかり描かかれていると思う。
ド頭の印象的な連続カットで描かれる「不安げに査問に答える入国者たち」と「バンバン判子を押す入国審査官たち」の対比だ。よく見ればエキストラをたくさん使ってきちんと描いていることが分かるだろう。


ここまできっぱりとテーマを提示するのは映像表現たる映画らしくて良い。こういうのが適度に無いと観ていてピンボケしてしまう。

そして観客にこのテーマを植え付けた後、ミッキーマウス(?)のトレーナーを着た中国人軍団がその「制度」を小気味いいまでにぶっ壊す、遊び心満天のシーンを入れるあたりもスピルバーグはさすがである(版権にうるさいW.ディズニー社もスピルバーグには怒れないのだろう・・・)。


もちろんこの遊びのシーンは残りの120分間に何の影響も与えないし、1mmの布石にもなっていない笑。2004年の映画だから台頭してきた困った中国人をコミカルに描き、先進国向けに笑いを取ったのだろう。

 

このように前半は楽しむことができた。当時映画の予告編を見ていて序盤の悲惨な展開がずっと続く映画だと思ったので、笑いありなのが意外だった。

 

後半:都合の良いロマンス+ありきたりマイノリティ友情パワー

細かいところまで描きテンポの良かった前半と比べて後半はイマイチ。詰め込み過ぎでパッとしない。ロマンスは都合よすぎだし、友情パワーはありきたり。またずっと空港から出ない主人公が何考えてるか分からなくなってくる。「こいつ、空港に居たいのでは?」とか勘ぐってしまう。
特に主人公がアメリカに来た理由を終盤まで明かさないので、頑なにNY行きを諦めない主人公にうまく感情移入できず、観ていて「ただの変わり者」になってしまうところだった。

さて、まず都合の良いロマンスについて。まずはじめにCAさん(アメリア)のヒールが折れたところをビクターが颯爽と助けることで出会うが・・・、ここで「お前なんで英語しゃべれんのw。英語が身につくのその後やろww」と都合のよさが炸裂する。まぁヒロイン役の美貌の力で「この人もっと見たい」と流されてしまったけど。しかしその後、アメリアの方から何のとりえもないビクターに心を開くのはさすがに都合よすぎ。いくら人生に疲れて今後を考えなおすタイミングの女だからってそれはない。夢見るばかりから現実に目を向ける年ごろなら相手の収入とか素性・過去とか知らないと惚れることなんてできないだろ~と思った(ビクターの過去は劇中でほぼ開陳されない)。またビクターとのディナーデートにてアメリアは何かが吹っ切れてこれまでのしがらみの象徴たるポケベルを捨て去るのだが、何がそんなに噛み合って決心に至ったのかのか不思議だった。


ちなみにアメリアとのやり取りで主人公のビクターは全く成長しない(彼には成長する余地がない。人生のスパイス程度に楽しむだけ)。思考回路が書き換わり人生を受け入れて一歩進むことができるようになるのはアメリアの方である。究極の善人、ビクターが捲いた種の一つに過ぎない。

 

次にありきたりマイノリティ友情パワーについて。劇中では中盤(起承転結で言う「転」)にてビクターが言葉の通じないロシア人を助けることで、後半では空港労働者の人望を集めることになる。ここでビクターの仲間になるのはマイノリティーばかりだ。
空港の保安取締員は黒人、機内食運搬係はイタリア系移民で、掃除夫は移民の老人である。彼らが団結してカターい白人の保安局長をぎゃふんと言わせる展開がクライマックスを盛り上げる。


「良心的」な映画にありがちな展開で、これら”心優しい仲間たち”が一致団結して立ち上がれば怖いものなし!無敵の強さを発揮して堅苦しい「制度」なんて粉砕してしまう!!のだった。まぁしかしありきたりだった。


グッと来ない原因は各人と主人公の関係がイマイチ描けていないからだと思う。最後に保安局長の指示を破ってまでみんながビクターを助けるのだが、そんなキャリアを壊してまで手を差し伸べるほどの人間関係までいつの間に形成されたのかと置いてけぼりにされてしまった。
※例えば掃除夫のグプタ:捨て身でジャンボジェットを止めに入るが、「お前そこまでする??」と一番置いてけぼりなシーン。ついでに言うとこいつあんまり名脇役じゃなった。


経緯をきちんと描ずに描きたいラストだけ描いちゃったから必然性があんまりなく、ベタでありきたりだなぁと感じてしまったのが原因だと思う。

なおマイノリティー友人たちとの交流でもビクターは成長しない。完成した聖人君子で周囲に何か人生で大切そうなことを教える役に終始する。その副作用でイタリア人(機内食運搬係)が突然結婚したときは笑ってしまったw。絶対何カットか省いてるw。

ここから先はこの映画の責任ではないのだが、アメリカ社会はいい加減この「マイノリティでもいいヤツらはいいヤツらだ!」という痛快図式から目を覚ましたほうがいいのではないかと思う。


実態とかけ離れているからだ。「ハートさえ真っ当なら誰しもヒーローになれる」とでも言いたそうな展開だが、いまだにこのマイノリティーたちは平均寿命も平均所得も白人に及ばない。
ファンタジーである映画では「心の健全さが全てを癒す」ということで騙せるのだが、実態は「実力が全てを癒す」を地で行っている。つまり黒人や移民が白人の優位性を奪うには
集団で猛勉強・猛労働してのし上がり、上流社会にコミュニティを築くしかないのである。良いヤツじゃ足りないのである。そういうミもフタもない現実を見ずに映画でファンタジー(とはいえ勇気・機転・民主主義・ヒーローというアメリカ人の価値観に基づいたファンタジーだから説得力抜群なのだろうが)を描いて
留飲を下げていては悪影響はあっても良い影響は少ない(現状維持を強めてしまう)のではないだろうか。
しかもアメリカはそんな程度の黒人・移民の社会進出を歓迎するわけでもなく「白人の仕事を奪った!許せない!!」としてトランプを大統領にしてしまった。
今後再選すればこういう映画観ても「そろそろいい加減にしたら?」という冷めた目線になってしまう(ハリウッド自体トランプが選ばれたことにショックを受けているらしいけれど。それに2004年の映画だけど)。

 

クライマックス

お父ちゃんの遺志を継いで大物ミュージシャンのサインをもらいに行く。設定自体は悪くないが、雑過ぎて取って付けた感が半端じゃない。ここに至るまであまりにお父ちゃんとジャズに触れなかったから徐々に溜まってきた感情もなく、展開にパワーがない。とてもアッサリな終わり方だった。・・・要らなかったのでは??

多分この映画は300分くらいあったものを削って削って129分にしたのだろう。空港アドベンチャーは細かいところまで楽しく描くのに、後半詰め込み過ぎ!


つれづれ

ちなみに「主人公が聖人君子で巻き込まれた(巻き込んだ)周囲の方が成長してしまう」というのは結構よくある話。たとえば『チャーリーとチョコレート工場』では主人公の少年チャーリーは初めから聖人君子タイプであり成長しない。むしろ感化されたウィリー・ウォンカが成長する(父との葛藤を解消する)。
この「劇中では誰々が成長した」という捉え方はヒューマンドラマジャンルでは鉄則だと思う。ヒューマンドラマ系の骨子は何かの出来事(たいてい”出会い”という言い方で包括される)があって登場人物の「凝り固まった世界観・思考回路」、「偏った認識」が改まり、その人がより自然に生きることができるようになる、自分の人生を受け入れることができるようになるというものだからである。
※この映画では大きく変化する人物はいないが、しいて言うならアメリアだろう。

・クラコウジア共和国:架空の国。ビクターの祖国で2004年1月16日にクーデター。トム・ハンクスのクラウジア語はすべてアドリブでロシア語などをヒントにしている。
・主人公のモデル:マーハン・カリミ・ナセリ。フランスのシャルル・ド・ゴール空港で空港生活していたイラン人。15年にわたり空港生活した。著書「ターミナルマン」。
スピルバーグトム・ハンクスのタッグなら2018年の「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」の方が面白かった。トム・ハンクスのカウンターにメリル・ストリープが出るのだが、ハリウッドスターってすげーなというをまざまざと見せてくれる。スピルバーグの分かりやすい演出も観ていてわかりやすい。なおベトナム戦争についての反省が「若いアメリカ人をたくさん死なせてしまった」オンリー。ベトナムをいかに苦しめたかはノータッチなのがすがすがしい。こんなやつらと第二次大戦の話をしても難しいかな?と感じる。それはこの映画とは関係ない話で、映画としては傑作。

【映画感想】アナライズ・ミー(監督:ハロルド・ライミス、1999)

※ネタバレあります。ご注意ください

面白いが、映画としては散漫な印象だった。とはいえ何か所か爆笑した・・・w


マフィアのドンであるポール(ロバート・デ・ニーロ)はパニック発作にかかり、精神分析医ベン(ビリー・クリスタル)との付き合いの中で自分の中のわだかまりを氷解させていく、というコメディ映画。

 

デ・ニーロはさすがのカッコよさ。観てて惚れ惚れする。一方でビリーさんの演技はわかりやすい「だけ」だった。表面的で深みのない感じ。TVの人なのだろう。デ・ニーロのマフィア映画のパロディが入るが、わかりやすさ優先で雑でありその辺はそんなに楽しくなかった。

物語の大きな流れはポールとベンの人間関係とポールの成長だと思う。


友情と成長の物語

ベンとポール、二人の友情を精神分析医とその患者という関係から描き始める。実際の分析でも患者が自己の新たな一面に気づくことは多いだろうし、だからこそ分析医と患者の間に深い人間関係が生まれることがあっても納得できる。それを脚本に利用したものだ。


特にポールの父の死について大きく踏み込むシーンを経て二人の関係は完全なものになる。・・・はずなのだがその後でこの二人の関係性は有効活用されていない。このシーンが作用を及ぼすのはポールの成長だけに感じた。

 

もったいないことに成長するのはポールだけでありベンには見られない。ポールは自分の心の中のわだかまりパニック障害として顕在化しそれをベンの助けを借りて解決しようとする。ベンとの付き合いの中で父親の死にざまが真の原因があることが分かりそれを氷解させた。そして最後にはマフィアからの引退を決意し新しい生活を宣言する。これまでのマフィア生活を続けるのではなく引退することで自分の人生を受け入れた真に自然な生活に向かうことがラストで暗示されていたのだと思う。フロイト以降の精神分析の影響を受けたストーリーだ。

 

ベンは成長とかしない。。。

一方のベンはと言えば最初から最後まであまり変わらないように思える。彼はずっと振り回されっぱなしだった。せっかく序盤で同じく分析医である父との確執が描かれたのにその後ほぼ触れられることはない


最後のマフィアの会合でベンは大男のジェリーをぶちまくるし大物たちの前でテキトーを吹きまくるが、別にあれは成長とかではない笑。コメディでたまにある貧弱マンの覚醒シーンだ。

 

ところどころある雑な展開

展開に納得できなかった点を列挙する。こういうのが多いと雑な映画だと感じる。

・ベンがFBIの指示でポールを盗聴する際、途中で盗聴器を取り外すがあれは謎だった。なんで取り外したんだろう。ポールたちからボディチェックされる可能性が高いと判断したのだろうか。あまりそう思えるシーンはなかったが。。。


・ベンの新妻の不安はずっと続く。この二人どこで出会ったんだろう。冴えない精神科医とTVキャスターか。よく考えれば似合わない組合せだった。

 

・カルロの裏切り者設定は何だったんだろう(最後のボスたちの会合でポールが引退を表明し、ファミリーはカルロに継ぐと宣言する。だが同時にカルロが裏切り者出ることも明かした。カルロは帰り際にポールのライバルであるプリモと組んで襲撃してくる)。「なんでコイツ裏切り者なの?」と唐突な印象だった。いろいろ見落としたのかな?最後のシーンを描くために銃撃が必要だったならプリモだけで良くない?

 

中盤:目まぐるしく変わる関係性

中盤で二人の立場・関係性が目まぐるしく変わる。

まず序盤でポールがベンに治療してくれとまとわりつく。対してベンは結婚直前であり厄介払いのためポールからの依頼を拒絶する。


一方で他の有力マフィアがポールにベンを消すようけしかけるが、ポールはベンを殺す奴は許さないと宣言する(ポールの認識:ベンは主治医→主治医+守るべき存在)。しかしFBIがベンとポールの関係に目を付けベンに協力を無理強いする。(ベンの態度:ポールを拒絶→エセ接近)。そしてポールがベンがFBIに取り込まれたことに気が付く(ポールの認識:ベンは守るべき存在→裏切り者)。最後にベンを始末しようとしたところでベンが真の分析医に戻る(二人の関係性:医者と患者)。


この関係性の展開が目まぐるしく中盤の見せ場だ。テンポがやや速すぎくらいで展開していきとてもスリリングで、追うだけで楽しかった。

 

映像美:ガラスがしっかりと飛び散る

この映画の特徴としてガラスの破片をきちんとばらまく点があると思う。まず冒頭の襲撃シーンでレストランのガラスが割れまくる。迫力満点だ。だが非常に危ないシーンでもある。破片の雨の中にロバート・デ・ニーロがいるんだから美術さんはさぞ大変だっただろう。観ればわかるが本当に危ない。ガラス片が散乱していて物陰まで這い出るだけで膝にガラスが刺さりそうだ。一方であれだけのガラス製品が砕け散るのは映像的に美しい。映像をスローにして華やかなBGMをかけるのも、飛び散る破片の美しさを引き立てたものだと思う。まぁ一瞬なんですけどね。


こんな感じでガラスが飛び散るシーンは観る方は楽しいが撮るほうはヒヤヒヤだと思う。そんなシーンが他にもある。ホテルでポールに殺し屋が迫るところ(絵画のガラスが割れる)や、ポールが父の死に向き合った直後の銃撃戦(車の窓。なんかあり得ない方向から破片が流れ込んでくる。投げ込んでるなw)で割れる。これらは見応えのあるところだ。

 

ひょっとすると私が映画を観てないだけでガラスがこの程度飛び散るのは普通なのかもしれないが・・・。私としてはガラスよく飛ぶわーと感心した。

 

しかしこの飛び散るガラスがストーリーの何かと密接に絡まっていたり暗示していたりするわけではないところがこれまた雑である。分かりやすい映画にはそんな分かりにくい演出が入り込む余地はないのかね。。

 

笑えるコメディシーン

がっつりコメディなシーンも用意されている。コメディ映画だから当然だが。たとえばリムジンを使った豪華ネタ。FBIがマフィアの集会を押さえようと空からヘリでリムジンを追いかける。追跡していたリムジンがトンネルを抜けると、おんなじリムジンが6台くらい出てきてあちこちに散らばる。

 

これを見たヘリパイロットが「どの車だぁー?!」と叫び、無線から無線から「黒のやつだ!」という使えない応答が返ってくる。全部黒だっつーのw。定番なおバカ映像だが、ちゃんとハイウェイ?でリムジンを6台走らせており迫力抜群で笑える。


あと、ハンサム・ジャックと呼ばれて出てきた手下が普通にブサイク、とか。こういうネタを瞬間的に挟まれるとやっぱ笑える。

 

ベンの分析医稼業について

ベンの日常的な治療風景は冴えない。全く冴えない。なんと患者のくだらない悩みを聞いている内に辟易して上の空になってしまうのだ。ちゃんとやれよw。

 

だが単なるヤブ医者かと思いきや、盗聴作戦中のドキドキな状況下でもポールについて新たな真実が得られれば患者の心の問題について一気に関心が向くちゃんとした医者なのだ。

 

演出としてはポールの父親問題を氷解させ銃撃戦をしのいだ直後、日常の退屈な診察シーンが来る。極限の刺激からどうでもいい患者の悩みが来ることで、振り回され役のベンにとっても実はポールの診察は実力を出すいい機会なのだということが示される。まぁちょっと好意的に拾いすぎかも。。。

 

とはいえベンが実はきちんとした分析医であるところがこの映画の魅力の一つだ。FBIの捏造証拠にあっさりとダマされ利用されるところでベンの魅了は一度下がる。何しろポール(デ・ニーロ)の敵に回るのだ。観客はたいてい大物役者に肩入れするものだと思うし、これは作品への感情移入にも大いにも影響すると思う。だから情けない罠でデ・ニーロの敵に回ってしまうと観る方からしたら魅力が落ちてしまうのである。

 

ところがどっこい、緊迫の盗聴作戦の中でもポールの父の死が心臓発作ではなく
ポールの目の前での銃殺だったと知るやいなや、それまでの落ち着きのなさはどこへやらで一気に診断モードに入る。ここでベンを見直す。頼りになる精神分析医じゃないか!となるのだ。この後のベンの働きは観ていて痛快かつ爽快だ。


ポールに殺されそうになったとしても、患者についての手がかりをつかんだ分析医は強い。堂々とポールの深部をえぐりだす。この映画の見せ場の一つだ。


思えばここまでの展開もナチュラルで鮮やかだ。FBIに利用されたベンがポールにすぐに会いたいと言い出す。これは自然だ。会ったのはポールなじみのイタリアン店。ここも自然。そこに他のマフィアがいてポールが挨拶に離席したところ、腹心が実はこのレストランでポールの父が殺されたのだと口にする。いい流れだ。

 

ポールの腹心、ジェリー

ポールの腹心ジェリーは相当なアホキャラだが、これは笑いをさそう以外にも活きていると思う。

 

コメディかつ情緒不安定な役なのでポールはよく泣いてしまう。マフィアのボスが子どものように泣くので威厳はさっぱりない。だがそんなときにジェリーのアホキャラが活躍する。アホだからボスが泣きまくってるのが聞こえると一緒に悲しんでしまうのだ。


むろん他の部下は「こっちが恥ずかしくなる!」とまともな反応を見せ、観客を置いてきぼりにさせない役を担う。やはり「普通」のリアクションをしてくれる人物がいてくれないと観客は共感できない。

 

しかしジェリーはそんなまともな役を同僚に任せ、病んでるボスと一緒に悲しむのである。この点が直後に襲撃されても平気でボスを守っている姿の説得力に通じる。ボスのことを「恥ずかしい」とかいってけなしてしまうと、どうしても命がけでボスを守り切る姿に説得力が出ないだろう。「大きくて力持ち」な三枚目キャラの有効活用なのだ。


それにしてもジェリーのブルドック顔は最高だ。ベンと式場から逃げ出すシーンなんて表情だけで笑える。とんでもなく武器になる面だ。

 

まぁそれにしてもデ・ニーロはかっこいい。ラストの会合にて騒然としたところで颯爽と現れ場を掌握して引退を告げるシーンは男でも惚れる。劇中でさんざん子どものように泣いているのに、あれだけかっこよく決められるともうダメだ。映画俳優はやっぱすごい。

 

余談だが、字幕よりも吹替えのほうがセリフを正しく汲み取れていることが多いと思う。字幕は観客が一瞬で読み取れる量に納めなければならないからかなり多くの情報を削いでいるのだろう。

 

気に入ったセリフ:「お前なんてアメーバ一匹治せないヤブ医者野郎だ!」