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元コンサルリーマンの雑記ブログ

ペンギン・ハイウェイ(監督:石田祐康、脚本:上田誠、キャラデザ:新井陽次郎、制作:スタジオコロリド、原作:森見登美彦、2018)

※ネタバレあります。ご注意ください。

 

アニメ映画の制作サイドは監督さえ書けばよいという気がしないので作品タイトル右にいろいろ書いた。
アニメの制作体制は気になっているのだが体系的によくわかっていない。富野由悠季さん(ガンダム原作者)の本が好きだから断片的には入ってくる。今度きちんと調べたい。
キャラデザの新井陽次郎さんはジブリ出身とのこと。「感情が高まった時にふわっと髪が逆立つ。ところなんてDNAが刻まれてますね~」という笠井アナ(元フジテレビ)の解説で「ジブリってそうだよな」と思った。

今回は印象に残った点をつらつら書いてまいります。


・この映画、なかなかに面白かった。

終盤のペンギン大行進(ペンギンに載って「海」へ突き進むところ)なんてアニメの真骨頂ではないだろうか。アニメでしか出せない迫力・爽快感だと思う。クライマックスへのいい盛り上がりだった。
監督インタビューでもこのシーンは「作画泣かせ」と言っていたが、リソースをかけるべきところにしっかり投入している証拠だ。優れた指揮官だ。
このシーンでは「あぁ、俺も生きたいなぁ」としみじみ感じてしまった笑。俺はこの映画のどの要素にそう反応したのだろうか。お姉さんとステキな時間を過ごすこと?日々を研究を重ねて遥かな高みを目指すこと?友達との夏休み?どれだろう。
この映画には少なくともこれら3つの「いいなぁ」があった。これらは普遍的な内容(2点目はニッチだが)で、そこにSF要素が加わる。

 


サバサバした世界

登場人物たちには名前はない。苗字だけだ。あだ名もない。だから苗字で呼び合う。小学生にしちゃあずいぶん変だが、観ていて不自然には感じない。舞台も小ぶりな地方都市っぽい一方で妙に都会的なのだが、
それらが描かれる日常の「清潔で上質な雰囲気」によーくマッチしている。この街では市街から転入してきた人を変な目で見るような土着要素は一切なさそうだ。それはそれで『東京人が描いた地方都市』的だと感じたのだが。
※原作の森見さんは京都の方だったと思うが、映画制作サイドが東京要素を経由させたのだろうか?


主人公もヒロインもサバサバしていて洗練された世界観でよく映える。むしろこういう人物を描く原作者だからこそ、サバついてる世界をうまく描けるのだろう。サバついてるくせにあたたかみがある。子どもたちが健全に生き生きしている。
※原作を読んでいないのでそちらでは違っていたらごめんなさい。


「えらい大人になる」というセリフ

冒頭で気になったのは「えらい」大人になる、というセリフ。けったいなセリフだな、この子のこういうアタマでっかちな世界観が120分で変わるのだろうなと思いながら観始めた。
しかし変わらなかった。変わったのはこっちの感じ方の方で、最後にはこのけったいだったセリフが実に健全に感じられた。応援したくなる感じ。これを自然に少年のひたむきさで描いて見せた点がこの映画の見事な点だと思う。

 


お姉さんの正体がどうあれ悲しい

そんないい雰囲気の映画だが、一番さみしくなるのはやはりお姉さん(青山君あこがれの女性)が人間ではないことを察していくいくつかのシーンだろう。
実際はペンギンが異常に丈夫なところから観る人は異質さ・不安さを感じ取っているはずだ。しかしペンギンとお姉さんが結び付くところでは、まだ不安さは無意識的であり、表面上は安心して観ていられる。むしろお姉さんと親密になっていくフェーズだ。
だが2,3日メシを食っていないというシーン(お姉さんと海辺の家に行く途中)で「・・・アレ?」と不安が意識の前面に出てくる。しかし2,3日なら現実的に考えてもギリギリあり得そうなので『人間ではない』という悲しい直感を受け入れることを拒むことができる。
2,3日というのは非常にいい塩梅だったと思う。少なくとも私は「うん。・・・・そういう日もあるよね」くらいで受け流そうとした。

 

だが1週間メシを食わないことで人間ではないことを確信する。ここで「別れ」が一気に認識の前面に出てくる。お姉さんの正体がどうこうというよりも必然的な別れが内蔵されているのか、いないのかが重要なのだ。
※青山君(本作の主人公。小学生)の合理的な生活スタイルに、どうしようもなく非合理的な穴をあけているお姉さんへの恋慕が、観る者の中でもよく効いている。まぁこれが描けている(しっかり別れを悲しませる)だけでもいい作品だと思う。

 

そうなると青山君がお姉さんのマンションにコンビニ袋をぶら下げたあのシーンが切なくよみがえってくる。あのころはまだ永遠の別れが来るなんて考えていなかった、一日でも早く治ってほしいという気持ちだったのである。


食事をやめたお姉さんの一方、青山君は不調が治ると母親の手料理をぐいぐい食う。ほほえましいシーンだが、食事しなければならない彼はどうしても人間であり、お姉さんとは別れる運命であることが強調されているように思う。だから微笑ましい悲しいシーンになっている。


そして海辺カフェで「お姉さんは人間じゃない」と断言するに至る。
ちなみに私は海辺カフェでの次の会話が好き。超ウルトラ大事な話してるのにコーヒーという何気ない日常会話にシームレスに変化w サバサバした二人の感性を見事に示していると感じた。


「私はなぜ生まれてきたと思う?」→「わかりません、でもいつかは・・・」→「じゃあわかったら教えて!・・・・コーヒー、苦い?」(セリフは完全再現ではないです)

 


お姉さんが消えるシーンについて

この映画で一番やってくれたところだろう。こればかりは映像表現の妙味なので観るしかないが、まったくしみったれていない。見事に消える「刹那」を描いてみせたと思う。某シネマンディアス風に言えば「5億点!」。
直前まで朗らかに手を振ってくれていた当たりも、サバサバ人物たちの別れとして実にふさわしかったと思う。

 


"都合のよさ"について

なおこの映画もほかの映画同様にツッコミどころ("都合のいいところ")がある。しかし"都合のいいところ"は悪ではない。その映画の「狙い」を効果的に引き出すためのものだからだ。
だから観ていて"都合のいいところ"を感じたら、「さて、どんな狙いのための仕込みなのだろうか?」とメリハリを付けて観ることにしている。
しかし都合の良さが悪になることもある。万が一大事なところを都合よく描いてしまっていたら、残念ながらその映画は駄作になってしまうのだ。

 

やはりストーリー上の大事なつながりは都合よくではなく、必然性があるように描いてほしい。120分で映画をまとめるにはこの辺の絶妙な采配が必要なのだろうし、映像表現独特の暗示(コトバで言わない)の力も駆使することになる。
※暗示は観客が1回(ないしは2~3回)でほんの少しの考察で気づくレベルで混ぜ込む必要がある。これをやるのはめっちゃ難しそう。監督とかなんかもその作品を観るから、初見の観客の気持ちなんて分からなくなりそうだし。


さてこの映画のツッコミどころだが、私にとってはさほど気になるものではなかった。
・海辺のカフェで青山君がお姉さんと一緒に父親を待つ習慣。なんでやねん。
・お姉さんが神的存在なら、お姉さんの実家の家族の存在どうなってるんだろう。劇中で触れられるが一言だけであり、考察魔対策だったのっか?※原作ではもっと踏み込んでいるのかもしれない。
・「海」に入ってしまった浜本パパたちはなぜ安全ゾーンに避難できたの?彼らはペンギン使えないのに。
・他にもたくさんある気がするが、気にならなかったから印象に残っていない。

 

 

中盤あたりでお姉さんがペンギンを出すのに必要なのは「光」だ、ということを青山君は気づく。このシーンによって以降の「明るさ」と「暗闇」の意味が格段に変わる。お姉さんは暗闇ではペンギンではなく不気味なコウモリを生み出してしまう。
と思って観たのだが、この効果は直後くらいしか効果的に使われなかった。・・そもそもが俺の勘違いかも。

 


まぁそりゃうらやましいですよねw

おっぱいについては皆さんいろいろ言いたいことがあるだろうが、私としては次の点に尽きる。「相手が公認の上で、きれいなお姉さんのおっぱいを論じる」のはうらやましいということだ。
様々な角度からおっぱいを見ることができ、それを相手が一応承っている(しかもいい女)、という状態は至高なのだ。まぁ二次元の小学生くらいの無垢さがないと無理だけどね。。ザッツ・ファンタジーだよね。


青山君がお姉さんを自分たちの秘密にしておきたいわけだよ(研究対象扱いされるのを懸念しているだけだが、独占欲が1㎜もないわけはあるまい)。お姉さんはアイドルじゃなくて「ぼくの」お姉さんであってほしいものね。。わかるぞ、少年。

 


母親<<<<<父親

この映画の親のかかわり方について。母親よりも役割を果たす「父親」たちも印象的だった。青山君のお父さんと浜本さんのお父さんだ。どちらも理系研究者気質(浜本パパは本物の研究者)であり、ストーリーに影響する。
一方の母親は青山君ママですら前半ではほぼ出ない。後半まで存在は示されているのに存在感は全くなく、一種の不気味さがあったのだが、後半は普通に優しく出てきたから何かの仕込みでもなかったのだろう。ちょっと肩透かしだった。

 


アンフォーマルへの入り口:保健室

「海」が巨大化して研究者数人を飲み込んだところで緊急ニュースが流れ、学校が避難所と化す。父親が飲み込まれたことを知る浜本(クラスメイト。青山君と同類寄りで秀才肌)は不安でたまらなくなるが、安全第一のため先生たちは学校から出ることを禁じる。


そこで青山君が機転を利かせ「浜本さんの体調が悪いので保健室に連れて行きます!」と小学生らしく元気に手を挙げて発言する(この小学生らしさ実に見事)。
保健室である。古くは授業をさぼる生徒の逃げ場であり、今では不登校児が何とか学校の敷地には入ったが教室に入れない場合の聖域でもある。このように作品上での保健室には逃げ場・聖域という裏の顔が存在する。


このシーンでも「抜け道」としての保健室の面目躍如感があり、なぜか保健室に対して「お前ってやつは・・・」と信頼と称賛を禁じえなかった。保健室はやっぱり面白いですよね。私はほとんど使ったことなかったですけど。保健委員でしたけど。

 


お姉さん登場までの見事な流れ

それにしても前半でお姉さんが登場するまでの一連の流れは見事だった。
学校で鈴木(クラスメイト。ジャイアン的)が内田(クラスメイト。内気な親友)を張り倒す → 歯科医で青山が鈴木と会う→スタフラニスキー症候群(だっけ?)という知的坊やジョークを見せる(内田の仕返し) → 
お姉さんが怒りながら登場、ときれいに必然性(都合よく端折らない)でつながっている。

キレイにつながっているからこそ余計なことを考えずにお姉さんに集中できる。少しでも違和感が入ると観るものは考えが一瞬だけ横道にそれるからだ。
この辺り都合よくササっと描いてもよさそうなものだが、制作者たちの意地なのか実にうまく描いてあった。お姉さん中心の話だからやっぱり登場シーンを大事にしたのかな?


大事にすると言ってもお姉さん自信や登場とその直前だけをリッチに描くのではなく、自然に自然につなげるということに力を入れたのは(そうだとしたら)、とても効果的だったと思う。

 


冒頭のペンギン大逃走劇

冒頭でペンギン一匹が街を逃げ回り森の奥へどんどん移動していくシーンについて。このシーンも見事だったと思う。はじめはただの野生のペンギンくらいに観ていたのだが、野生動物としては動きがおかしいはずだ。


野生動物は基本的に動き続けたりしないだろう。その場の危険から逃げることができたら今度はその逃げ先が安全かを確認するはずだからだ。それにむやみに走り回るのは体力を消耗するためサバイバルには向かないと思う。


だから何かに追われてもいないのに移動し続けるペンギンというだけで非常に奇妙な感じを得る。一心不乱なペンギンの動きからは野生動物よりも人格があるかのように感じられる。


思えばこの違和感からお姉さんとの別れは予感されていたのだろう。雑に言ってしまえば神の意思で動いてるペンギンがキーになるのだから非人間的要素があることが暗示されるのだ。


コミカル(住民がペンギン見て腰抜かすなど)だがすこーし異質で、後のさみしさを予感させるシーンだった。

 


ポカンとした顔の演出効果

劇中中盤で青山君と浜本さんが言い合いになり、間に挟まれた内田君がポカン顔をかますというシーンがある。こういうシーンって展開が前に進んでいることを効果的に示すんだなと感じることができた。
ポカン顔が観るものに当てる第一印象は微笑ましさであったりかわいらしさだと思う。しかしポカンとするからには本人は『置いてきぼり』を食らっていることになる。
置いてきぼりを食らうためには周囲が次へと進んでいなければならない。つまりポカンとした顔を大写しすることで逆説的に展開が次へと進んでいることを示すのだ。

 


宇多田ヒカル

宇多田ヒカルのエンディングテーマは好きな曲だけど、全然オシてこないから最後に流れても「あぁ終わった」感が出ない。まぁ悪くないんだけどね。「あ、この曲使われてたんだ」というあまり効果的ではない使われ方だった。
劇中で流れるマンドリン曲は葛城梢さんという方の演奏らしい。たまに聴くとやっぱりいいですよね笑。おきれいな方です。どっちも曲としては好きでした。

 


お姉さんが美人ではなかったら

しかし、この映画はお姉さんが美人じゃなかったら成り立たないだろうな。恋モノだしお姉さんへの憧れが原動力だからそれで問題ないのだが。美人ね、、、それだけでこうも偉大とは。いやはや参る。
美人についてはあまり考えることができないが、『お姉さんが美人であること』の「意味」を考えるにはどうすればいいのだろうか。イイ感じの問いがサクッと浮かんでこない。あんま意味ないのかな?多くの人が論じてそうだから調べて観るか。今度。。

 

そもそもお姉さんが美人以外でこういう二人の別れの話を描けるのだろうか?

 


好きなセリフ:「だけど僕は踊ると、ロボットみたいになる」。