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元コンサルリーマンの雑記ブログ

【映画感想】チョコレートドーナツ(監督・脚本:トラヴィス・ファイン、2012)

※ネタバレあります。ご注意ください!

『幸せは自分で守るべき』という映画ではない。なぜならこれは『幸せを大切にし、それを守ろうとしたのに守れなかった』大人たちの物語だからだ。しかも誰かが悪いわけでもない。幸せを壊した方の大人たちも、70年代という時代の中、社会的な分業の中で自分の職責を果たそうとしただけだった。

 

両方の正義が衝突している間にマルコはボロボロになり、最後の決着では生きるのにあまりに過酷な環境へ追いやられてしまった。主人公たちが「あっちはマルコの実母。こっちは赤の他人」という事実によって、深い愛情とは対照的にアッサリと裁判に負けてしまう。『どうしようもない失意のどん底』の感情を実にうまく描いていると思う。

 

主人公の歌声があまりに美しいため、ラストシーンはどん底による暗澹たる気持ちだけではなく、マルコと過ごした幸せだった時間も蘇らせている。

 

あらすじ

二人のゲイ(「ゲイバーのパフォーマー」と「地方検事」)が一人のダウン症の少年(マルコ)を引き取って育てる。そこには真実の愛情が生まれるが、70年代の空気(同性愛者への偏見)の中で裁判により引き離されてしまう。

 

マルコは実母の元で地獄のような生活に戻される。母親は薬物中毒で、マルコをボロアパートの廊下に出して知らない男と行為に及んでしまう。耐えられないマルコは一人で家を出てしまうが、死体で見つかるという話。

 

ゲイの二人が出会ってマルコを引き取るまでは実にとんとん拍子で話が進む。この映画は97分しかないし、描きたいのは幸せを守れないプロセスだろうから序盤はあっさり。地方検事が家にマルコを受け入れるところなんて「お前はまだマルコにそんなに愛着ないだろ!w」と思ってしまった。でもテンポ大事だもんね。

 

社会制度に幸せが引き裂かれるプロセスが描かれる

実母が薬物で捕まってしまったのでマルコを引き受ける(一時監護権)ための法的な審理を受ける主人公二人。主人公二人は「我々はいとこ」だとウソをつく。このウソを礎にして監護権が認められ、3人での幸せな生活が営まれる。だが礎がウソなので、これがバレてしまうとさあ大変。マルコは施設に取り上げられる。彼を取り戻すために二人は永久監護権に変えて再度審理へ臨む。

 

70年代の空気の中、主人公たちは「同性愛者の男二人がダウン症の子どもを養育なんてできるのか」という社会の疑念にどうにか勝たなければならない。今度は証人として養護学校の教員、ゲイバーの同僚、児童福祉の担当者が呼ばれて次々と証言する。彼・彼女らは同性愛者に懐疑的な社会の風潮などどこ吹く風で、主人公二人が養育者としていかにふさわしいかを証言する。彼らが育んでいた愛情がまぎれもないために、証人たちがややもすると困難かもしれない証言であっても堂々と言ってくれる胸のすくシーンである。

 

しかし審理では永久監護権が却下される。

 

ついに裁判へ持ち込む二人。これまでのマルコへの愛情を再確認し強い決意で裁判に挑む。だが実母が早期釈放されてしまうと為す術もなくあっさり負け。マルコは施設から実母の家へ送還されることに。さっさと書いてしまったが、この過程で主人公二人はマルコへの愛を再確認し、どうしても彼を育てたいという気持ちを確かめていた。しかしどれだけ真摯な愛情があっても、実母の存在の前では(それがどれだけダメな母親であっても)裁判上まったく敵わないのである。このむなしさ、どうしようもなさ、失意のどん底が実によく描かれている。

 

言葉にならない感情を表現する

判決に従ってマルコは実母のもとへ帰される。マルコは家に帰れると聞いて喜ぶが、実母の家の方だと気付くと「ここは家じゃない」と言って聞かなくなる。だが押し込められてしまう。

 

家では前と同じように腐った母親が大音量でロックをかけ、知らない男とクスリをやっている。マルコは前と同じように少女の人形を抱きしめる。三人で幸せな生活をしているときには見かけることがなかったあの人形である。元に戻ってしまったのだ。廊下に出されたマルコはそのまま一人で外に出て行ってしまう。このシーンはラストにつながるところだが、これまでもマルコが一人で出かけてしまうことが描かれていたから、観ている方は「そりゃ出ちまうよな」と納得して自然に観ることができる。

 

ここまでひどくはないが、不安でいっぱいの家庭を味わったことがある者ならマルコの境遇には同情せずにおれないだろう。しかも貧しくて逃げ場の無いような狭い家ならどうしようもない。外に逃げ出すしかない。マルコの表情は安心と愛情を奪われ、不安と恐怖におびえる子どもの心を実によく現わしていた。

 

あるプロの批評コメントでこんな趣旨の指摘があった。主人公の一人(パフォーマーの方)がマルコを愛する理由は描かれないがそれでも納得感があるのは、彼の演技からこれまでの人生でどれほどの偏見や無理解に苦しめられてきたかがわかるからだろう。一人でいるときに震えるまつげ、顔をくしゃくしゃにしてマルコに微笑む姿、といったどれも印象深い表情である。この指摘は確かにその通りで、こんな繊細な彼だからこそ失意のどん底に落ちてしまっては敵わないのである。

 

このゲイパフォーマーの主人公は実力が評価され自分の歌声を披露する機会を得るのだが、これがめちゃくちゃうまい。この歌の歌詞がひとり彷徨うマルコとオーバーラップし、彼こそがマルコと一緒にいるべきであったことが強調される。