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元コンサルリーマンの雑記ブログ

【映画感想】セルピコ(監督:シドニー・ルメット、脚本:ウォルド・ソルト、ノーマン・ウェクスラー、1973)

※ネタバレあります。ご注意ください!

穏やかに暗い映画。しみじみ浸れる映画。

124分間ある映画。汚職と戦う警官セルピコアル・パチーノ)の物語。目まぐるしい銃撃戦よりも汚職の打開に苦悩する会話シーンが多い。加えて音楽も静かなものがメインでそのためか疲れなかった。音楽が流れたとしてもマンドリン系のBGMでこれまた穏やかだった。ただし劇は汚職を暴こうとするセルピコの身の安全が保障されない状態で進む。そのため気が抜けずあっという間の124分だった。

 

冒頭がクライマックスという倒置法。だがラストの印象はあいまい・・・。

冒頭はセルピコが撃たれるクライマックスで始まる。担ぎ込まれたセルピコの安全を守るため多数の警官が警護に配備される。私はそのシーンの解釈を間違ってしまった。セルピコを何としても警察が守りたい『人望ある警官』、『仲間から愛された警官』であることを示すシーンなのだと理解してしまったのだ。

 

これは全く逆で、セルピコは最後まで警察の中で敵だらけだ。セルピコが撃たれた時の上官のセリフから『撃つ心当たりのあるやつがやたら多いな。嫌われとるんやな・・・』と読み取るべきであった。演出的にも十分そう示していたのだろう・・・笑


警察の汚職は新聞社タイムズに告発して大々的に報じられても抜本的には治らない。ラストで聴聞会を開き、社会が聞き入れるまでどうにもならない(まぁちゃんと汚職がなくなったかは示されていないのだが)。警察だけじゃ自浄作用は効かずに永遠にもみ消されていただろう。

 

さてここで「あいまい」なラストの印象について。

ラストでセルピコが撃たれたことは彼が社会への発信力を手に入れるイベントとして機能したように思えた。明示されていないものの撃たれたことは社会がセルピコに関心を持つキッカケとして作用したようだった。だからこの映画としてはセルピコの終わりなき汚職との闘いに幕を下ろした大きな転換点だったのだと思う。大事なシーンということだ。しかし最後の聴聞会が何気なく始まったからか印象には残らなかった。。。

 

もっとこの辺を印象的なシーンにできなかったのかね。撃たれたこと自体は倒置法も相まって印象的だったがこれでは「いつハメられるかわからない状態で結局彼は撃たれちゃいました」という点を最も押しており、聴聞会で「彼の戦いはついに報われました」という点を押さない形になっているように思える。

 

映画としては後者の方が断然押す甲斐があるように思えるのだが、この作品では前者を押しているのだろうか?でもそうだとしたらたれる直前に仲間が全然助けてくれないシーンでの恐怖をもっと強調して描くだろうと思う。ということはやっぱり後者を押しているのだろうが、それにしてはラストの印象があいまいだったなと感じる。だから終わり方がちょっと物足りなかった。

 

セルピコの人となりの描き方:周囲の人物との対比から

前半では周りの人々がセルピコの人となりを示す上で効果的に使われている。たとえば初めの彼女とその友人たちだ。彼女自身はバレリーナを目指している。そしてその友人は詩人やら作家、女優であるらしい。しかしそう言いながらも一時の腰掛としてサラリーマン・OLをしている。そんな彼・彼女らについてセルピコ「なんで君の友達はみんな本来の仕事をしていないんだい?」と聞く。鋭い質問だ。誰一人として本業一本槍がいないのである。

 

本気で警官をやっているセルピコにこれを言われるとたまらない。彼・彼女らはみんなかっこつけで華やかな職業を名乗っているだけなのだ。その証拠にセルピコに芸術論をぶつ女性のセリフは誰が聞いてもわかるくらい「薄っぺら」にされてしまっている。これらが相まって、不思議そうに尋ねるセルピコの顔は実に印象深い。


軽薄で上っ面だけの人間とセルピコを対比することで、セルピコの真摯な人間性を浮かび上がらせる効果があったと思う。そして痛快なシーンだと思う。またセルピコは酔ってしまえばそんな友人たちとも冗談交じりで気さくにパーティを楽しんでおり、そんな様子から彼が「気のいいやつ」であることが分かる。観ているとセルピコの魅力に徐々に魅了される。まだ汚職の中で身の危険が迫っておらず楽しめるフェーズだ。ついでに触れると、劇を通じてどんどん伸びていくセルピコのヒゲもビジュアル的に飽きない(笑)。


他にもセルピコの人柄を浮かび上がらせる役として下手をこく警官が出てくる。泥棒追跡中にセルピコもろとも銃を乱射してしまう警官だ。彼は乱射のせいで市民の車を傷つけており、自分が始末書を書かずに済むように泥棒逮捕の功績をセルピコにおねだりする。くそ野郎だがセルピコは悪態をついた後に手柄を譲る。この警官は相手を確認もせずに射撃するビビりで情けない警官だ。観る者は自然とセルピコとこの警官を対比してしまい、堂々と泥棒を捕まえて手柄まで渡すセルピコに感情的に味方するだろう。

 

なおこの対比をより鮮明にするために、ここでの逮捕劇はセルピコが相当体を張ったもものにされている。渡す手柄が重たい方がいいイメージが増すからだ。セルピコが階段を転げまわってまで捕まえた泥棒なのだ。

 

他の印象的なシーン

告発の相棒となるノッポ(役名わからんかった・・・)との出会いも印象的に描かれている。ピンチが続くセルピコの相棒なので観る側としては「信用できるやつ」なのか、「いいやつ」なのかを把握したい気持ちが働くキャラクターなのだが、出会い方が実に良く安心できるキャラであることが分かりやすく示されている。

 

こんな出会い方だ。私服警官としての座学にてマリファナの実物を吸うところで隣同士として登場してくるのだ。教官にマリファナを吸うぞ~と言われて教室内は「オイオイマジかよ、儲けもんじゃん!」みたいなウキウキ感が出る。そして一緒に吸ったノッポは「上物だ」と超ご機嫌。こんな状況で仲良くならないわけがない笑。その後地下鉄のホームで一緒にラリッた会話をたっぷりして見せる。これで観客もノッポに対してセルピコ同様に親密な気持ちになれる。「良いやつ」認定ができるのだ。こんな流れを自然に導けるのでマリファナを一緒に吸うのはとても工夫された演出だと思った。

 

やっぱりアル・パチーノ。ブチギレたら天下一品...!!

セルピコは中盤まで慎重だ。あまり表立って告発すると命が危ないから、周りをうかがいながら自分だけは裏金を受け取らないようにする。しかし中盤でついにブチギレるシーンがある。ここで思い出す。「こいつはアルパチーノだ」ということを。キレたときの彼の演技はやはり最高だ。余談だが私が初めてアル・パチーノの映画を観たのは大学生の時、平日昼間の『スカーフェース』のリバイバル上映でだった。5人しか客がいない。しかも主婦ばっかだ。そんな中ノーカット版180分が一瞬だったのを強烈に覚えている。あの主婦たちも同じように感じたのだろうか(感じていれば飲み友達になりたい笑)。

 

彼がブチギレるとそのくらい魔法がかかる。はっきり言って普通のストレスならぶっ飛んでしまう。「暴力シーンはこうでなくっちゃ」という要素が全部詰まっていて物足りなさがない。しかも過剰さもない。私にとって最高の怒り爆発シーンだ。中盤までの穏やかな展開からうっかり忘れていたが、あのアル・パチーノを感じたシーンだった。もうこれだけで私には最高だった。

 

ちなみにこの映画はアメリカ・イタリア合作だそうだ。イタリア要素は主に音楽くらいかな?ロケ地はすべてアメリカだろうし、合作感がまるでなかったな。1976年に「アウトロー刑事・セルピコ」としてドラマ化したとのこと。機会があれば観比べてみたい。面白かった。

 

【映画感想】チョコレートドーナツ(監督・脚本:トラヴィス・ファイン、2012)

※ネタバレあります。ご注意ください!

『幸せは自分で守るべき』という映画ではない。なぜならこれは『幸せを大切にし、それを守ろうとしたのに守れなかった』大人たちの物語だからだ。しかも誰かが悪いわけでもない。幸せを壊した方の大人たちも、70年代という時代の中、社会的な分業の中で自分の職責を果たそうとしただけだった。

 

両方の正義が衝突している間にマルコはボロボロになり、最後の決着では生きるのにあまりに過酷な環境へ追いやられてしまった。主人公たちが「あっちはマルコの実母。こっちは赤の他人」という事実によって、深い愛情とは対照的にアッサリと裁判に負けてしまう。『どうしようもない失意のどん底』の感情を実にうまく描いていると思う。

 

主人公の歌声があまりに美しいため、ラストシーンはどん底による暗澹たる気持ちだけではなく、マルコと過ごした幸せだった時間も蘇らせている。

 

あらすじ

二人のゲイ(「ゲイバーのパフォーマー」と「地方検事」)が一人のダウン症の少年(マルコ)を引き取って育てる。そこには真実の愛情が生まれるが、70年代の空気(同性愛者への偏見)の中で裁判により引き離されてしまう。

 

マルコは実母の元で地獄のような生活に戻される。母親は薬物中毒で、マルコをボロアパートの廊下に出して知らない男と行為に及んでしまう。耐えられないマルコは一人で家を出てしまうが、死体で見つかるという話。

 

ゲイの二人が出会ってマルコを引き取るまでは実にとんとん拍子で話が進む。この映画は97分しかないし、描きたいのは幸せを守れないプロセスだろうから序盤はあっさり。地方検事が家にマルコを受け入れるところなんて「お前はまだマルコにそんなに愛着ないだろ!w」と思ってしまった。でもテンポ大事だもんね。

 

社会制度に幸せが引き裂かれるプロセスが描かれる

実母が薬物で捕まってしまったのでマルコを引き受ける(一時監護権)ための法的な審理を受ける主人公二人。主人公二人は「我々はいとこ」だとウソをつく。このウソを礎にして監護権が認められ、3人での幸せな生活が営まれる。だが礎がウソなので、これがバレてしまうとさあ大変。マルコは施設に取り上げられる。彼を取り戻すために二人は永久監護権に変えて再度審理へ臨む。

 

70年代の空気の中、主人公たちは「同性愛者の男二人がダウン症の子どもを養育なんてできるのか」という社会の疑念にどうにか勝たなければならない。今度は証人として養護学校の教員、ゲイバーの同僚、児童福祉の担当者が呼ばれて次々と証言する。彼・彼女らは同性愛者に懐疑的な社会の風潮などどこ吹く風で、主人公二人が養育者としていかにふさわしいかを証言する。彼らが育んでいた愛情がまぎれもないために、証人たちがややもすると困難かもしれない証言であっても堂々と言ってくれる胸のすくシーンである。

 

しかし審理では永久監護権が却下される。

 

ついに裁判へ持ち込む二人。これまでのマルコへの愛情を再確認し強い決意で裁判に挑む。だが実母が早期釈放されてしまうと為す術もなくあっさり負け。マルコは施設から実母の家へ送還されることに。さっさと書いてしまったが、この過程で主人公二人はマルコへの愛を再確認し、どうしても彼を育てたいという気持ちを確かめていた。しかしどれだけ真摯な愛情があっても、実母の存在の前では(それがどれだけダメな母親であっても)裁判上まったく敵わないのである。このむなしさ、どうしようもなさ、失意のどん底が実によく描かれている。

 

言葉にならない感情を表現する

判決に従ってマルコは実母のもとへ帰される。マルコは家に帰れると聞いて喜ぶが、実母の家の方だと気付くと「ここは家じゃない」と言って聞かなくなる。だが押し込められてしまう。

 

家では前と同じように腐った母親が大音量でロックをかけ、知らない男とクスリをやっている。マルコは前と同じように少女の人形を抱きしめる。三人で幸せな生活をしているときには見かけることがなかったあの人形である。元に戻ってしまったのだ。廊下に出されたマルコはそのまま一人で外に出て行ってしまう。このシーンはラストにつながるところだが、これまでもマルコが一人で出かけてしまうことが描かれていたから、観ている方は「そりゃ出ちまうよな」と納得して自然に観ることができる。

 

ここまでひどくはないが、不安でいっぱいの家庭を味わったことがある者ならマルコの境遇には同情せずにおれないだろう。しかも貧しくて逃げ場の無いような狭い家ならどうしようもない。外に逃げ出すしかない。マルコの表情は安心と愛情を奪われ、不安と恐怖におびえる子どもの心を実によく現わしていた。

 

あるプロの批評コメントでこんな趣旨の指摘があった。主人公の一人(パフォーマーの方)がマルコを愛する理由は描かれないがそれでも納得感があるのは、彼の演技からこれまでの人生でどれほどの偏見や無理解に苦しめられてきたかがわかるからだろう。一人でいるときに震えるまつげ、顔をくしゃくしゃにしてマルコに微笑む姿、といったどれも印象深い表情である。この指摘は確かにその通りで、こんな繊細な彼だからこそ失意のどん底に落ちてしまっては敵わないのである。

 

このゲイパフォーマーの主人公は実力が評価され自分の歌声を披露する機会を得るのだが、これがめちゃくちゃうまい。この歌の歌詞がひとり彷徨うマルコとオーバーラップし、彼こそがマルコと一緒にいるべきであったことが強調される。

 

【映画感想】僕の大切な人と そのクソガキ(監督・脚本:デュプラス兄弟、2010)

※ネタバレあります。ご注意ください!

ラストシーンが出色の出来で、本当に幸せな気持ちで観終えることができる映画です。

 

あらすじ

離婚した冴えないおっさんのジョンは元妻のホームパーティでモリーという女性と出会う。お互い惹かれ合うがモリーにはサイラスという大きな息子(20歳ちょいくらい?)がいた。実はこいつが厄介者。表面的は二人の幸せを願うが本音では母親を取られたくなく、二人を引き離そうとする。このままじゃいけないのだがモリーは息子を疑うことができない。そして闘うジョン。終盤は冴えないが自立した大人(ジョン)と自立できないでいる子ども(サイラス)の衝突。映画では触れられないがジョンはある意味本当のサイラスの父親になったのではないかと思う。

 

この衝突は大人が子どもに対する責任を曲がりなりにも果たす機会にもなっていた。だから最後の衝突の時もジョンはサイラスを突っぱねてオシマイということはしなかった。

 

ラストの笑顔がこの映画を雄弁に語る

90分間の映画のラストでジョンが車の運転席から見せる最高の笑顔、これがこの映画そのものだと思う。後述するがこの笑顔には①サイラスの成長、②モリーの子育てへの不安(息子が自立できない)の解消、③ジョンとモリーの二人の幸せの3点への祝福が込められているようだった。これをやってのけたジョンは冴えないけど実にカッコいい大人だ。


しかしたった90分間で観る人にあの笑顔を納得させる脚本、演出は神業だと思う。映画つくる人って本当にすごいわ。。。


前半の仕込みではサイラスの不気味さがじわじわ来る。不健康なデブが醸し出す「危うさ」が非常に有効活用されている(笑)。観ていて「コイツ不安定やな~」ってのがわかりやすくて良い。わかりやすさは大事だ。

 

コメディらしいシーンはそんなにないが、とっさのウソで大爆笑

ジョンがサイラスと初めて激突するとき、ジョンがとっさに「俺もパニック障害だった」と嘘をつくシーンがある。これはジョンと二人きりなら本性を表すサイラスがモリーの前ではあくまで良い子という特徴を使ってハメるためのとっさのウソだった。
よく観れば嘘ついてることは分かるのだが、対決の緊張感と冴えない男が繰り出すギリギリばれそうな嘘の絶妙なバランスが面白く、これには大爆笑してしまった。

 

サイラスについて:母親の愛情を操作し自分を守る子ども

本作でサイラスが取る手段はすべて素朴だ。彼に洗練された手ごわさというものはまったくない。しかしそれでもジョンにとっては強敵である。なぜならサイラスは「最愛の息子」という最強の武器を使ってモリーからの愛情を死守しようとするからだ。つまりこいつは大きな赤ちゃんなのだ。


この映画を観ていると「こんなあまっちょろいガキに苦労人のジョンが負けてたまるか!」と、いつの間にかジョンに感情移入してしまうが、この視点からするとサイラスはタイトルの通り本当に『クソガキ』なのである。

 

なおサイラスが「この程度でしかない」というのにはリアリティがある。なぜならサイラスは他者と本音でぶつかったことがない。息子に弱い母親の愛情を操作していつも守られてきた。だから実力なんか不要で息子という立場さえあればよかった。序盤でサイラスがジョンに自分の楽曲を演奏して見せるシーンがある。でも楽曲は全然イケてない(ジョンも聴かせられながら戸惑っている)。そんなところにでも「こいつ実力は大したことないよ」という前振りしてあったと思う。

 

寝室の外からカンペでジョンを攻撃するシーンなんてコメディだから自然に笑えるが、必要な能力としては小学生レベルでサイラスのキャラクターをよく反映した行動だと思う。

 

そんなクソガキサイラスをそのまんまにしない

この映画の楽しさはサイラスをそんなクソガキのままにしておかないことだ。サイラスが人として未熟なのは母親モリーにとっても大変な問題である。これを放置してジョンとモリーの幸せはあり得ない。モリーはその点できちんとした愛情を持つ母親なのである。この映画ではモリーにはサイラスが今のままで本当にいいのだろうか悩ませるし、サイラスはジョンとの激突を通じてどうにか自立した大人になろうともがかせる。ダメな奴がそのまんまダメなままなのではなく、現実にぶつかって、もがいて変身していく。「ヒューマン」コメディたる所以である。

 

最高のラストシーンについて

 この映画の最後でジョンを幸せに導くのはサイラスだ。つまり彼は母親モリーをジョンに渡すのである。このときサイラスは初めてジョンを「ハメる」。ジョンは騙される。あのコドモダマシしかできなかったサイラスが、である。


これが何を示すのか。ラストの笑顔は①サイラスの成長、②モリーの子育てへの不安の解消、③ジョンとモリーの大人の幸せを祝福していると先に述べた。

 

サイラスは自分の安心よりも母親の幸せを優先できるまでに自立を遂げて成長した。彼がクソガキだったのはこれまでジョンのように自立した大人との衝突がなかっただけなのだろう。それができた。そしてモリーは精一杯サイラスを育てきたが、それでもやはり「こうでよかったのかしら」と不安が付きまとっていた。それはそうだろう。サイラスが大人になっても自立しないのだから。しかし最後のサイラスはそれを払拭した(もしくは近いうちに払拭する。自立した生活を示すことで)。そして二人の愛に障害がなくなったジョンとモリーの幸せ。このすべての解決を示すラストの完璧な笑顔。これを映像で示すための90分間だったのだと思う。すばらしい映画だ。

 

それにしてもこの映画の英語原題は「Cyrus」だけ。日本語タイトルはよくここまで思い切ったなぁ。まぁTSUTAYAで見かけても「サイラス」だけじゃ手に取らないかもしれないから、インパクト狙いでよく成功してると思う。

 

【映画感想】ペンタゴン・ペーパーズ ~最高機密文書~

※ややネタバレあります。ご注意ください!

めちゃめちゃ面白かった!

ここ最近観た映画の中で一際素晴らしかった。

 

映画のストーリーの軸は「ベトナム戦争泥沼化の裏側を暴く新聞社の闘い」と「表現の自由の意義」。これらはスケールの大きな社会的な話題だが、それを主人公のキャサリン(メリル・ストリープ)とベン(トム・ハンクス)の個人的な想いと見事に交差させて観せてくれるため、実に感情移入しやすい。社会レベルの大きな話なのに個人的な出来事のように手に汗握る展開で物語っており、それがこの映画の観やすさにつながっている。

 

また現代人の人生を考えるとどうしても「仕事」の比重が大きい。
自分の人生や価値観をかけた仕事が一度でもできれば、現代では幸せ者と呼べるかもしれない。ただしそんな話を描くにしてもたった2時間の映像作品で世界中の観客を納得させるのは難しい。一体どうやればそんなことができるのか。それを文句なくやってのけている映画である。

 

観客の気持ちが置いてきぼりにならないために、この映画の序盤~中盤では70年代のアメリカの新聞社において何が重要で、何に情熱をかけるべきなのかが良く描かれている。例えば『機密文書持出しシーンの人生をかけた緊迫感』や『ワシントンポスト社の株式を公開することでのしかかる安定経営へのプレッシャー』、『新聞における特ダネの重要性(怒号が飛び交うデスクのシーン)』がしっかりと描かれている。これを観て相応の感情を喚起させられていれば自然に物語に引き込まれることが可能だろう。

 

こういった仕込みによって「圧」が高まり、キャサリンが「決断」をするシーンの重みへとつながっていく。

 

細部まで豊か、それがいい映画だと思う

そんなストーリーのど真ん中はここでは触れずに周辺的なシーンについて触れてみたい。この映画が面白いな、豊かだなと感じるのは例えばこういうシーンにあると思う。


ワシントンポスト側がついに極秘文書を入手し、みんなでベンの家で解読するシーンだ。そこでのベンの娘の描き方がとてもイイのである。このシーンはとんでもない情報の山に興奮する記者、機密情報漏洩を懸念しまくる顧問弁護士、会社が潰れちゃ元も子もないと迫る経営陣、突然の来客にてんてこ舞いのベンの奥さんと相当騒がしい。


これだけで十分面白いのだが、呼び出された記者たちがベンの家に集まるときに、玄関前でベンの娘がレモネードを売っている点に注目してみたい。70年代のアメリカでは子どもがレモネード屋をやって小遣いを稼ぐのは定番らしいが、父親たちのあわただしさと比べると何とも平和だ。娘はまだ小学生くらいで幼さ・無邪気さが残っている。1カット内で対比することで騒動をよく引き立てている。

 

彼女はどんどん集まるお客さんに対して、騒々しい雰囲気に負けずかわいらしくレモネードを売り続ける。実はこの要素はスクープを脱稿してベンの家がすっかり静かになった後でも尾を引く。娘が稼いだお小遣いをキッカケにベンと奥さんで「何気なく」会話が始まるのだ。この何気なさ故に印象に残らないかもしれないが、違和感のない(よって説得力のある)絶妙なきっかけになっていると思う。


二人は何気ない会話を続けながら、一緒に芸術家的な奥さんの作品作りの準備をする(ここの動作が息ぴったりで二人の過ごした年月を感じる)。会話の中で奥さんがキャサリンのことを話す。猛烈新聞マンのベンにも家族があり、その中で生活していてその中に仕事がある。そして自分だけの目線ではなく家族、特に妻の目も通してキャサリンを理解していき、決断のシーンに厚みが出る。そんなプロセスが実は丁寧に描かれている。


これは否が応でも観る者の中にある種のリアリティを生じさせるのではないだろうか。
この映画はそういう高品質なシーンの連続なのだろうと思う。もちろん主題の料理の仕方が抜群だが一方で細かいところが実に豊かで面白い。いい映画だ。こういう映画は白けることがないし飽きない。自然に引き込まれる。そして見事なカットの度に頭の片隅で感心する。

 

もっと映画を「観れる」ようになりたい

最近映像演出の本を興味本位で読んだ。そのおかげで「映画の映像ってこんなに雄弁だったのか!」と気づくことが多い。まだまだまったくの未熟だが今後ももっと映画が「観れる」ようになりたいと思う。セリフがなくても映像の特徴を観ていれば何が起きているのか、何が起こるのかよくわかる。またカットとしてどんな気持ちなのかもわかる。映像演出について知ることで「これまでと違う観方ができるかもしれない」と気づけたことが新鮮だ。


例えば機密文書を持ち出すシーンでは資料室から出た廊下の蛍光灯が切れかかっている。これは明らかに不安を語っている。キャサリンの家での晩餐会にて、ジョークで笑わないマクナマラ長官の横顔どアップ。明らかに笑えない事情がある。やっぱり問題を抱えていた、とか。セリフではなく映像で語る箇所は数えきれない。

 

映画は観る人任せだ。相当いろんな要素が詰まっている。良質な映画は「醤油」みたいな味わいだと思う。基本の五味はすべて含まれており、糖アルコールの変化でその風味をクラっと豊かに彩る。明確な塩辛さはあるが、風味レベルまでをどう感じるかは受けて次第だ。メインメッセージのしっかりした映画はこういう風味があるように思う。

 

一方で残念なのは・・・

一方残念なのは、あれだけ戦争を長引かせておいてベトナム人への謝罪の意識は露もないところ。この作品の中で「アメリカは今まで負け知らずで驕っていた」、「政治家は体面を気にして多くの若者を死地に追いやった」という認識がワシントンポストの英雄的行為の意義を掻き立てている。しかしそれだけ「悪いこと」という認識はあるのにベトナム側への謝罪の意は一切ない。これはブルーレイの特典映像(キャスト、スタッフインタビュー)でも一切触れられなかった。


まぁアメリからしたら当時共産主義を攻撃するのは当然であったということなのだろうか。しかし自国の若者の命を体面のために失ったことを悔やむ一方で、ベトナムの若者の命については全く感想がない点が少し異様に映った。


今の日本人的感情からしたら「そうは言っても命は平等」という考え方が根付いているので、自国の喪失を悲しんだら自動的に「相手にとっても同じことだ」という発想が出てくるものだと思う。少なくとも私はそう感じたので異様に映った。

 

・・・ただこれは映像作品としての映画の外側の話だと思うので、この映画は変わらず最高だと思います。

 

最後にメリル・ストリープトム・ハンクス凄すぎ。これだけ最高の映画で主役やってもすべてを引き連れてますなぁ。。。なんでアメリカってこんな俳優が生まれてくるんだか。

以上。めちゃめちゃ面白かったです。

 

好きなセリフ:「そんなことしたら建国の父たちが墓から這い出ちまうぞ!」

 

VBAエキスパート受験記録(1)

VBAエキスパートを今年の9月に受験してきました。

めでたく『合格』したので勉強内容をざっと残したいと思います。

なおVBAスキルはゼロから始めました~。それ以外のExcelスキルはそこそこありました。

 

以下の流れで記事を分けて記載します。

  1. 前提:勉強開始前の私のExcelスキル(本記事)
  2. 勉強①:1、2冊目に使ったテキストと勉強法
  3. 勉強②:新鮮で本格情報満載のOfficeTANAKA
  4. 勉強③:公式テキストでの勉強法
  5. 番外編:これからVBAスキルは要るのか?RPAなんじゃないのか??

勉強開始前の私のExcelスキル:マクロについて

勉強開始前の私はマクロ*1はちんぷんかんぷんでした。

もちろんコンサルなのでプロジェクト(PJ)で便利なツールを使うことはよくあります。

システム導入系PJならばベンダーが作った各種設計書のフォーマットにマクロが仕組まれているし、業務改善系PJならば内部統制用の改ざんチェックマクロなどがあったりといろいろ出くわします。

でも使う専門で、コードを読んでもわかりません。。。

「結局このツールの目的は何か」を理解することで乗り切っていました。

まぁ、対象業務の趣旨を理解していればたいていそれでOKなのですが^^;;

ですがこういうのに出会うたび、「わー、俺もマクロつくりてぇ」と思っておりました笑

やっぱり便利で工夫の凝らされたマクロに出会うと、自分でもやってみたいなーと思うんですよね。

勉強開始前の私のExcelスキル:マクロ以外について

一方でマクロ以外のExcelスキルには自信がありました。いろんな外資コンサルの方々と仕事をしてきましたが*2、3年目以降は教わることより教えることのほうが圧倒的に多かったです*3

これには理由があり、私が経験したPJに業務効率化のために多量のExcelワークシートをどっさり作り直すというものがありまして、ここで相当鍛えられたんだと思っています。ある業務で使うExcelの構造を統一するためにワークシートの設計ルールを考えるというPJでしたが、フタを開けたら実際に手を動かすところまでやってくれということになり、若手だった私が手を動かしまくっていました^^;; ひっちゃかめっちゃかで実に個性的(?)なワークシートたち相手に奮闘してました。

まぁ若手は単価が安いですからねw 業務量に死ぬかと思いましたがw(まぁまだ若手ですが・・・)

 

余談ですが、喜んでもらえるtipsは次の3つですかね

  • 取得と変換:革命的な機能です。「データ」タブのリボン左側にあります。Excel2016以前にはないと思います。データ収集を自動化するための機能で、csvやweb、他ExcelファイルからExcelが勝手にデータを収集するようになります。「イマドキ手入力って古いよね」という天*4からのメッセージでしょうか。システム系では知っている人がいますが、業務系では少ないですかね。
  • セルジャンプ:Ctrl+GもしくはF5キーで呼出し。そこから「セル選択」を選べば出てくる選択オプションが便利です。例えば初見のワークシートのどこに関数が仕込まれてるかなど、これを使って着色すれば一目瞭然になります。基本的なことですが、関数セルと手打ちセルがわかれば初見シートでもその構造をつかみやすくなります。
  • アプリケーションキー:マウスの右クリックで表示されるコンテキストメニューをキー一つで出します。マウス使わない族にとっては不可欠です。

まぁそんなこんなでExcelと対面するうちに、Excelの魅力に取りつかれていきました。また「これマクロ使ったらもっと便利なんだろうなー」と思うようになるわけです。

とはいえ職場によっては勝手なマクロがあちこちで作られると困ることが多々あります。上司がうまく引き継げないリスクを嫌がったり、監査でちょっかいw出されたり。。。ちなみに先述のPJではマクロを使わない方針でした。クライアントに満足に使える人がいなかったためです。

今でいう野良RPA問題もおんなじですね。これはかつての「EUC・マクロ製作者がいないと訳わからん問題」の再発だと思っています。便利だけれど作った人が去る際に引継ぎがうまくいかず、安全に使える人がいなくなり使われなくなってしまうというものです。職場できちんと使われるマクロを作るには相当な実力が必要だと聞きますが、それももっともです。

 

余談が多くなりましたが、以上が勉強前の状態でした。

 

*1:ここでは「マクロ」と「VBA」を同義に使います。正しくは異なります。

*2:PJによっては他社さんがすぐ横のチームということも多いです。

*3:ただし教えるのはtips・小技の類です。当然ですがドキュメンテーションなど資料作りはその後も教わり続けています。

*4:ビルゲイツとその後継者たちw

コンサルタントSF (Consultants SF)*In English at the bottom

ある惑星は住民がコンサルタントと営業とコメンテーターだけでできていた。

宇宙の平均値からすると非常にうるさい星だった。また「生産性」という言葉がよく使われるにも関わらず、その惑星の生産性はほぼゼロという異常な星だった。

ある時、営業とコメンテーターはコンサルタントを星から追放することを決定した。理由は一際うるさかったからだ。

確かにコンサルタントのうるささは桁外れだった。かつて不幸なコンサルタントの脳が身体と分離してしまう事故があったが、それでもその口は永遠に経営改革を語り続けていた。

また、コンサルタントの脳を忠実に再現したシミュレーションで全ての会話パターンを出力した結果、いかなる条件下においても「分かりません」、「弊社より他社の方が優れています」、「御社は完璧です」という3つを絶対に発さないことが分かった。たとえシミュレータがバグっても絶対に発さなかったのである。

これを目の当たりにした営業とコメンテーターはある種の信仰に近いものを感じた。と同時にやはり自分とは異質なものであるとの確信を強めた。

コンサルタントを追い出すことは非常に簡単だった。まず脱出ポッドを3種類作る。1つは非常に高級・高性能だが操作性が難しく、高度な知能を要求し、選ばれしエグゼクティブ・エリートだけが乗るべき乗り物だと説明する。あとの2つは凡人とのろまの乗り物だと説明した。この2つはただの張りぼてだ。

あとは惑星が滅亡するストーリーをでっち上げた。彼らから教わったようにコメンテーターが無意味に分厚い報告書を書き、営業がちょっと多すぎる程度にグラフを添付した。参考文献もたんまり盛り込んだ。

効果はてきめんだった。コンサルタントは非常に遠慮がちながらも、高性能ポッドに乗るのは自分たちであるべきことは火を見るよりも明らかであると主張した。残された者たちはいかにもその通りであるというように従った。

追放は首尾よく実施された。計画と異なるのは、前のめりのコンサルタントたちがまだカウントダウン中なのに発射ボタンを押してしまったことくらいだった。

営業とコメンテーターは惑星に残った。彼らは自分たちで考えていたことを行動に移し始めた。彼らは農家と職人に分かれた。彼らは協力し、話し合い、物を融通しあった。必要とあれば互いの持ち物を批評しあい、足りないものを付け足し余分なものを引いていった。そういうことに時間を費やしていた。誰も生産性やら経営やら言わずにまともでいることができた。

コンサルタントたちは経営改革の必要性と多額の予算が必要であることを宇宙空間に説いていた。

この惑星の平和は次のコンサルティングファームが結成されるまで続いた。

  

<In English by Google & my adjustment>

One planet consisted of residents, consultants, sales reps and commentators alone.

From the average value of the universe, it was a very noisy star. Despite the fact that the word “productivity” is often used, the planet ’s productivity was almost zero.

At one time, sales and commentators decided to expel consultants from the stars. The reason was because it was noisy.

Certainly, the annoyance of the consultant was extraordinary. There used to be an accident where the brain of an unfortunate consultant separated from his body, but his mouth continued to talk about management reform forever.

Also, as a result of outputting all the conversation patterns in a simulation that faithfully reproduces the consultant's brain, under no circumstances "I don't know", "Other companies are better than ours", "Your company is perfect" It turns out that these three are never emitted. Even if the simulator was buggy, it never came out.

The sales and commentators who witnessed this felt something close to a kind of faith. At the same time, they strengthened their belief that it was something different from themselves.

It was very easy to kick out a consultant. First, make 3 types of escape pods. One is very high-class and high-performance, but difficult to operate, demands advanced intelligence, and explains that only the executive elite is a vehicle that should be chosen. The other two explained that they were riders with ordinary people. These two are just tensions.

After that they made a story about the destruction of the planet. As they learned, commentators wrote a meaninglessly thick report and attached a graph to the extent that the sales were a little too much. A lot of references were included.

The effect was amazing. The consultants were very reluctant to argue that it was clear as day that they should be on the high performance pod. The remaining ones obeyed that they were right.

Expulsion was carried out successfully. The only difference from the plan was that the positive attitude consultants pressed the launch button while still counting down.

Sales and commentators remained on the planet. They began to put into action what they had thought of themselves. They were divided into farmers and craftsmen. They cooperated, discussed, and made things available. If necessary, they criticized each other's belongings, added the missing ones, and pulled the extra ones. They spent a lot of time on that. No one was able to be decent without saying anything about productivity or management.

The consultants told the outer space that they needed management reform and a large budget.

This planetary peace lasted until the next consulting firm was formed.